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第57回

■終わりはいつも突然にやってくる

「太った?」
「太った。クスリの副作用。食べすぎじゃないからね」
「食い過ぎの言い逃れか」
「違うって。ほんとに副作用」
「そうなの?」
「すこしは食べ過ぎてた」
「はは。で、どうなの。体調は」
「完璧じゃないけど、一時期よりはずっといい」
「めまいは」
「たまに。でも慣れた」
「慣れるの?」
「ずっとだったから」
「大丈夫なのか。ほんとに」
「大丈夫」
「難病指定だろ」
「この手帳が目に入らぬか」
「耳は」
「聞こえは悪いけど、それもだいぶ良くなった」
「結局、正式な病名は何」
「突発性難聴ナントカカントカ。長すぎて覚えられない」
「三半規管だった? 悪くなったのは」
「そうみたいだけど、先生の話を聞いてもよく理解できない。だから難病」
「そうか」
「原因も不明。だけどほとんど気にならなくならないくらい良くなってるから。この間帰って来たときにも言ったけど、最初は歩けなかったからね。めまいがひどくて。最近はまったくそんなことはないし」
「難病って良くなるのか?」
「北大病院でやった加圧治療が効いたみたい。タンクの中に入って気圧を上げるっていう治療。合う人と合わない人がいるらしいんだけど、わたしには合ったのかも」
「治療費が高そうな治療だ」
「難病指定だからタダ」
「そうか」
「そう」
「ステキチとテンスケは?」
「テンスケは元気。ステキチも元気だけど、ずいぶん歳とった。一度、腰が立たなくなったことがあって、びっくりした」
「いくつになったっけ」
「十七」
「十七歳か。長生き猫だよな。嬉しいけど」
「テンスケだって十四歳だよ」
「そんなになったんだ。ジジ猫コンビだ」
「わたしたちだって同じように歳とってる」
「そうだよな」
「お義母さんもね。もう七十三で体がそうとうしんどいみたい。腰と膝が特に。この間は動けなくなった。死ぬかと思ったって。ずいぶん弱気になってるみたい」
「仕事は?」
「いまは無理して行ってる。年金だけじゃやってけないって。政治家も官僚もバカな国だから」
「ビエンチャンに呼ぶか」
「絶対いやだって」
「年寄りだからな。札幌の年寄りにこの暑さは応えるかも」
「猫もいるし」
「あのワガママ放題の巨大猫」
「帰ってきてほしいみたい」
「ん?」
「弱気になってる。お義母さん。体も弱ってる。だからあなたにそばに居てほしいって」
「そうなのか?」
「歳をとってるの。みんな」
「......」
「店は?」
「ああ。すごく忙しい」
「そうなんだ」
「驚くくらい」
「で、どうする?」
「どうするって」
「日本に帰ってくる?」
「どういうこと」
「店をたたんで」
「......」
「お義母さんをこのままにしておけないでしょう。一人暮らしなんだし。一応、長男だし。それにわたしだって仕事辞めたちゃったし」
「そんなに合わなかったんだ」
「部署換えはいいけど、上司も同僚もバカなのにはついていけない。頭にきて腹が立って」
「そう言って辞めたプロ野球のピッチャーがいたな」
「ほんっとにバカなんだから」
「いいよ。ストレス溜めてまた具合悪くなるよりマシだ」
「そう思って」
「うん」
「それで、どうする? お店」
「こっちにいる間に、みんな歳をとってたっていうことか」
「何を浦島太郎みたいなこと言ってるの」
「ビエンチャンは竜宮城みたいな街だから」
「お義母さんは切実みたいだよ」
「そうか」
「そうだよ」
「...わかった。三日間考えてみる」
「考えて」

 三日後。おれは店を畳むことに決めた。義母のことも鋼鉄の妻の病気も一旦店をやめろという合図なのだろう。すべては流れでしかないと思っている。無理に逆らうこともあるまい。もったいないとは思うが、永遠なものなどありはしないのだ。だから悩むこともない。後悔もしない。そうやってずっと生きてきた。終わったら、また始めればいいのだ。始めることに遅いということはない。それはカフェ・ビエンチャンで学んだことだ。

「決めた。店を畳む。七月いっぱいで帰国する」
「それでいいの?」
「ああ」


 終わりはいつも突然にやってくるものだ。しかしやってきた終わりにあたふたとはするまい。そう思っている。だからせめて封印は華やかに。
 おれは店の掃除を始めた。
 今宵も宴。
「メニューは決まったの?」
 鋼鉄の妻が訊いた。
 おれは笑った。
「もちろんだ!」
 妻は一週間ほどカフェ・ビエンチャンですごし帰って行った。
 カフェ・ビエンチャンの最後が決まった。
 二〇〇七年七月に入ってすぐのことだった。

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