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第52回

■歳をとってしまったことに突然気づいた午後

 店内のテーブルや椅子を掃除のために外に出し、腕を大きく振りながら、ふと空を見あげると空に真っ白な入道雲。六月。雨季に入ったとはいえ、一日中雨が降っているわけではなく、時間にして三十分ほどの激しいスコールが日に数回あるだけだ。雨雲が空に居座るということもなく、ほとんどは空一面青に染まっている。ふりそそぐ太陽の強い日差しは水浸しになった地表をあっという間に乾かしてしまい、つい一時間前までそこもかしこも洪水のようになっていたなどとは信じられないほどだ。
 両腕を大きく伸ばした。右肩に小さな痛みがはしる。テーブルや椅子を掃除のたびに出し入れしているうちに傷めてしまったのだと思いたいが、要するに五十肩だ。
 そう。すっかり忘れていたが五十を過ぎていたのだ。同い年で会社勤めの人間は、そろそろ定年ということを考えはじめている年齢か。子どもがいるなら成人を過ぎているだろう。ところがおれはラオスで飲み屋をやっている。二十歳のときには考えもしなかったことだ。いや。そもそも何も考えずに、行き当たりばったりで生きてきた結果が現在のおれである。人生に計画など持っていなかったし、今もない。ただ目の前にある面白そうなことを拾ってきただけ。決めていたことといえば、ただ一つ。子どもを作らないことだけである。
 子どもをなぜ作らなかったのかと聞かれたら、嫌いだからと答えることにしている。十一歳も離れた弟がいたせいで、小学生のときにはオムツ替えやミルク作りのエキスパートになり、夜泣きに苦しめられ、さらにその後も保育園の送り迎えや中学・高校の入学卒業式に出るなど、子育てはもう散々に経験済みで飽きてしまったこともある。
 というのは言い訳で、実は臆病者なだけだ。子育てという重い責任を背負って生きるなど、精神的にも経済的にも耐えられそうにない。それよりは好きなことをして面白おかしく生きていたい。自由に動きまわっていたい。両方できてしまう人間もいるのだろうが、すくなくともおれには無理だ。まして"冗談じゃないってんだ"と吐き捨てて家を出て行った親父のようにはなりたくない。いや。なる要素は大いにありだった。小学校中学校の担任による評価は、"協調性皆無""飽きやすい""持続力なし"の三点セットが常のことだった。だから、あらかじめの親業放棄。母親はそのようなおれを見て人間として不真面目だとおっしゃったが、はいそうなんですとしか言いようがない。
 ところで子どもがいない人間は、子どもを持っている人と比べて自由である反面、一つだけ不便なことがあるのだがご存知だろうか。
 それは自分の年齢がわからなくなってしまうということだ。
 多くの親たちは自分の子どもが育っていく姿を見ることで、重ねてきた年月を身をもって知ることになるのだが、歳月の記憶装置でもある子どもがいないおれのような人間は、過ぎてきた時間を確認するすべがないのである。だからいつまでも年齢を忘れて馬鹿げたことにウツツをぬかしていられる。ガキのままである。その結果がカフェ・ビエンチャンだ。
 それでも年齢を感じることはたまにだがある。昨日までは見なかった白髪を鏡の中に見つけたときとか、一日あれば抜けていた二日酔いが三日酔いくらいになってなかなか治らず、さらに伸ばした右肩に小さな痛みを感じたりしたときだ。そしてもう一つ。いつまでも元気だと思っていた親が確実に老いていたことを知ったとき。
ちょうどこの頃であろうか。札幌に住む一人暮らしの老いた母親がぐずぐずとしだしたのは。
「お義母さん、身体の調子が悪そうだよ」
 日本から電話をくれたのは鋼鉄の妻だった。
 おれは聞き流した。七十を過ぎてもなお絶好調の人間がそうそういるはずもない。まして母親はユリ・ゲラーなみのスプーン曲げができる"超能力ババア"である。
 しかし七十過ぎの数字は単なる数字ではなく年寄りを表す数字だということに、おれは気がついてはいなかった。それに世界を破壊できるほどの超能力を持った婆さんは『AKIRA』に出てくるミヤコ様くらいで、母親がやってみせるスプーン曲げ程度の能力では時間を止めることなどできはしない。誰でも歳をとる。おれはそんな当たり前のことを、いい歳をして見過ごしていた。
「そうか。まあ、前々からあちこち痛いって言ってたからなあ」
「とにかくいろいろ相談もあるから、そっちに行くね」
 妻が言った。
 おれは電話を切った。
 痛みのはしった右肩を回した。小さな痛みがすこし大きくなったような気がした。
 空は青かった。
 カフェ・ビエンチャンは順調だった。しかし永遠に終わらないものは長嶋茂雄が口にしたときの巨人軍くらいのものだ。すべては終わりが来る。わかっていた。わかっていなかったのは、それがすぐ先の二カ月後だったということだ。
 おれはジエファーソン・エアプレーンのCDをフル・ボリュームでかけながら、箒で店を掃きはじめた。

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