WEB本の雑誌

第41回

■笠置シズ子の唄声に川エビの悪夢を見た

「いやあ、川エビは生のままで食べたら絶対にダメです。すくなくともわたしは、絶対にっ!食べませんっ!」
 銀縁暴走族フレーム眼鏡の奥に覗いた鋭い視線がおれを射抜いた。横でヘラヘラと話を聞いていたアラ主任の顔が引き攣っている。忙しい時間帯も過ぎ、そろそろ店主であるおれの本格泥酔タイムに突入しようかという午後十時過ぎのカフェ・ビエンチャン。CDプレーヤーからは笠置シズ子が唄う『東京ブギウギ』が流れている。本日の店の音楽テーマは“ビエンチャンに戦後東京の焼け跡を!”である。
「川魚もそうですが、危ない寄生虫がしっかり宿ってるんですよ。とてもじゃないですけど、生で食べる勇気はないです」
 水を飲むかのようにビアラオを喉の奥に流し込みながらしゃべっているのは、ビエンチャンに研究所を構え、ルアンパバンから車で二時間ほど入った電気もない山奥の村に通いながら川エビの研究をしているエビ博士・バルタン伊藤だ。まだ三十代。ボラだかハゼだかオコゼだかの研究をしている天皇に講義をしたこともある気鋭の魚博士であるが、もともとは養護学校の先生で居合いの達人でもあるという変り種。四国愛媛に妻子を残して二〇〇六年末に単身赴任でやって来た早々、カフェ・ビエンチャン泥酔クラブにご入会である。
「じゃ、このエビにも寄生虫がいるの?」
 おれは皿の上に山盛りになった川エビをつまみ上げた。
「いますよ。でもボイルしてるから大丈夫です。とにかく川モノは絶対に生で食べたらいけません。怖い寄生虫ですよ。肝臓に宿ったら目もあてられません」
 バルタン伊藤のバルタンというのはウルトラマンに登場する、あのバルタン星人のこと。酒に酔って話すことすべてがエビの話に直結してしまうので、おれが源氏名として付けてやった名だ。もっとも伊藤さんはバルタン星人はエビではなくてザリガニだと学者らしく細かいところに不満のようだが、おれにはエビにしか見えないからそれでいいのだと言ったら、あれはザリガニでもなくエビでもなく宇宙人ですよ! とブルースカイの亀田さん。そんなくだらない話で大のオトナがやたらと盛り上がってしまうビエンチャンは激動する世界の主流から外れて本日もまことに平和なのであったが、川エビに宿る寄生虫の話だ。
「肝臓だけならまだしも、その寄生虫は脳まで移動しますからね。脳に行ったら最後です」
 そう言いながらバルタン伊藤は茹でエビの殻を剥き口の中に放り込む。研究地の山奥の川で採取してきたシマエビ・ラオだ。バルタン伊藤発見の新種である。体長は大きくて六,七センチ。軽く塩を入れた湯でごく短くボイルして食べると、北海道サロマ湖特産の北海シマエビのような強い甘みが口いっぱいに広がりことのほか美味いので、おれがシマエビ・ラオと勝手に名づけてやった。バルタン伊藤はこの天然の新種エビ、シマエビ・ラオをなんとか養殖して、村の事業に発展させたいと奮闘努力中なのである。しかしその美味い新種エビにも恐ろしい寄生虫がいるのだという。
「わたし食べた」
 ぼそりとつぶやいたのはアラ主任だ。
 全員の目がアラ主任に向けられた。
「お世話になってる知り合いが持ってきたんですよ。養殖してる川エビ。新鮮だから刺身で食べられるって」
 アラ主任の目が泳いでいる。
「このエビだって今朝捕れたものですけど、たとえ今生きていたとしても、わたしは生では絶対にっ!食べませんっ!」
 バルタン伊藤が皿からシマエビ・ラオをつまみ上げた。
「でもこの間日本に帰ったとき病院に行って検査したけど、寄生虫関係はまったく出なかったですよ」
「それが怖い」
 アラ主任の言葉にバルタン伊藤が間髪入れずに答えた。
「川エビや川魚に宿る寄生虫はいろいろありますけど、とくに怖いのがいてですね。そいつが肝臓に宿ると三十年は潜伏して出てこない。もちろん病院で調べてもわかりません」
 アラ主任の口元に引き攣った笑いが浮かんだ。
「潜伏期間が三十年?」
 おれはゾッとして聞き返した。
「はい。三十年たって活動しはじめる寄生虫です。それまでは何の兆候もなし。で、活動がはじまると脳まで移動して神経をおかしくしてしまいます」
 エイリアンではないか。
「ええええ~っ、そんなあ~」
 アラ主任の顔は笑ってはいるが目が泣きそうだ。
 おれは確認した。
「検査してもわからないんだよね」
「そうです。わかるのは寄生虫が活動しはじめる三十年後です。でも寄生しているとわかったそのときは、もう遅いんです。肝臓をやられるか脳をやられるか。どっちにしても命に関わる。だからわたしは怖くて絶対に川エビは生では食べられません」
 バルタン伊藤はきっぱりと答えた。笑ってはいなかった。
「でもわたしだけじゃなくて、一緒にいた日本人もみんな食べたんですよ」
 アラ主任は食べた人数が多ければ危険性も拡散するのでは考えたいようだ。
「他の人が食べたからって、アラさんに寄生した寄生虫がどこかに行ってくれるわけじゃないですよね」
 しかし学者であるバルタン伊藤の言葉は冷徹である。だよな。納得。
 アラ主任の願望は砕かれた。
 あまりにも落ち込んでいるので、おれは訊いてやった。食べた量が少なければ、すこしは安心できるかもしれない。
「何尾食べたの?」
「四尾か五尾」
「一尾も百尾もそれほど変わりませんよ。まあ三十年経ってみればわかります」
 居合いの達人でもあるバルタン伊藤はバッサリと正面から袈裟懸けで切りつけた。アラ主任は声もなく倒れた。絶命。
 笠木シズ子の唄声が空しく響く。

  ♪さあさブギウギ 太鼓たたいて
     派手に踊ろよ 歌およ
    君も僕も愉快な 東京ブギウギ~♪

「アラさん! あと三十年楽しく生きるしかない!」
 慰めたが、じつはおれも食ったことがあった。ヨメのラオス人義父さんが手に入れてきたというのを生でしっかりと食ったことがあるのだ。いや。生の川エビ食いはおれだけではなく、貧日会所属の女子連のほとんどが経験があるはずだ。いったい彼女らの三十年後はどうなるのであろうか。まあおれは生きているかどうかもわからないし、たとえ生きていて寄生虫が脳神経を食い荒らしたとしても端からはボケですまされることだろう。それにそんな歳になれば食われて困るような脳でもあるまい。
「怖いです! 川の寄生虫はホントに怖い!」
 バルタン伊藤がシマエビ・ラオを食いながら叫んだ。
 呆然と皿を見つめるアラ主任。
 世界の片隅に忘れられたようにあるビエンチャンの夜は、それでもいつも何かが起こっている。
「それで今回のわたしのプロジェクトとしては、どうしてもこのエビを商品化してですね」
 バルタン伊藤のエビ話はまだまだ続くようだった。
 カフェ・ビエンチャンの焼け跡に笠置シズ子の唄声が楽しそうだった。

記事一覧