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第7回

■NGOが助けるのはなにも貧困と病に苦しむ世界の子どもたちだけではない

 スターシェフの博士と、同じくスターウエイトレスであるクロコ先生の帰国が近づいてきていた。二人ともそれぞれの仕事の任期を終えての帰国だから、カフェ・ビエンチャンに残ってくれなどと言えるはずもないし、もちろん残ってくれても外国人並の給料を払う余裕もない。ちなみにビエンチャンにおけるレストランや食堂で働くラオス人給仕の月給は、最低三〇米ドルといったところ。しかしアパートを借りて一人住まいの人間がビエンチャンで暮らしていくには、四〇〇米ドルから五〇〇米ドルは最低限欲しいところだ。一ヵ月一五〇米ドルから二〇〇米ドルのアパート代。まあこれは家具付きで掃除洗濯もしてくれるというアパートなのだが、それに加えて食費で一〇〇から一五〇米ドルくらいかかるとすれば、どうやったって給料はそのくらい貰わなければやっていけないということになる。それはラオス人も同様で、月給三〇米ドルなんぞでは絶対に一人暮らしなどできないのだ。だから彼らは親の家か親戚の家に住むか、あるいは店に食事付きの住み込みという形で生活を成り立たせている。
 などと考えていたおれはハタと膝を叩いた。そうか。その手があったか。
「あのさ。日本に帰国するのはやめてうちで働かない?」
「いいですよ。でも給料出せるんですか?」
 クロコ先生が馬鹿馬鹿しいといった表情でおれを見た。客の入りが悪いことを知っているだけに、何を戯言をみたいなもんだろう。
 しかし秘策があった。
「ここに住み込みで月給三〇ドル。もちろん食事付き。ビアラオも毎晩一本サービス」
 クロコ先生の口から小さな溜め息が漏れた。
「帰国しまーす。ラオス人をあたってください」
「だよなあ」
 やはり日本人に月給三〇ドルは無理があったようだった。しかし転んだままただで起きるおれではない。
「よしわかった。なら客の入りを上げるために今晩は同伴出勤のこと。以上!」
 まるで場末のキャバレーかスナックの営業である。
 しかしスターウエイトレスはさすがであった。
「いいですよお」
 そしてその夜。クロコ先生は日本語学校の同僚女性教師を同伴して意気揚々とご出勤なさったのである。
「マスター! お客さん連れてきましたよお! わたしが相手しますから、マスターは料理よろしく」
 スターウエイトレスからスターホステスへと変貌を遂げたクロコ先生は、ビアラオを手に店に出ていった。覗いてみると、髪の長いほっそりとした女性がケタケタと大きく笑い声を上げながらクロコ先生とビールのグラスを掲げている。どうやら他の店で二人は一杯やってきていたようだった。
「マスター、紹介するね。ヤマダトモコさん」
「どうもー! ヤマダでーす!」
 結構酔っ払っていた。しかもきれいな顔立ちとは裏腹に豪快そうな酔っ払い方だ。
「ここ、料理がおいしいから常連になってくださいねー」
「いいですよお! なりますよお!」
 もう何でもありそうな感じだった。これならカップヌードルを出しても常連になってくれるのではあるまいか。そう思った。しかしじつは彼女、ラオス経済の調査研究に来ている夫とともに、けっこうな食道楽だったのである。そしてこの若いヤマダ夫婦の二人は、その後のカフェ・ビエンチャンの経営を支えるほど通い詰めてくれる大常連になったのだが、それだけではない。カフェ・ビエンチャンのさしあたっての課題であった“仕入れの足”の問題を解決してくれる恩人となったのである。
 自転車を提供してくれたのだ。
 二,三日後に夫婦そろって店に来た二人が、クロコ先生におれが歩いて市場まで通っていると聞かされ、呆れたように首を振りながら申し出てくれたのである。
「少々ガタがきてますけど、使っていない自転車があるから持ってきましょうか?」
 願ったり叶ったりだった。歩くのは苦にはならなかったが、自転車があれば時間の節約になる。何より、ちょっとしたものが足りないときに買い物に出かけるのが、これまでになく便利になる。
「お願いします!」
 破顔一笑。おれは万歳した。
「マスター、よかったね」
 スターホステス・クロコが満足そうに頷いた。
 数日後。ヤマダ夫婦が自転車を届けてくれた。黄色い自転車だった。本になった『カフェ・ビエンチャン大作戦』の表紙に写っている自転車だ。ところどころ錆が浮いてはいるが、乗り心地は悪くない。
「ありがとう! 大事に使わせてもらうよ」
 おれは自転車に“イエロー・ストーム号”という名を与えた。黄色い嵐。毎日市場に向かってビエンチャンを疾走する自分の姿を思い浮かべた。
 この自転車は約八ヵ月後、休みの日に酒を飲みに行ったお店の店先で盗まれるまで、みごとに仕入れ部門の重責を果たし抜いてくれることになる。
 それにしてもこれ以降、カフェ・ビエンチャンにやってくるお客さんが、突如カフェ・ビエンチャン救済援助のためのNGOにでも変身したかのように、さまざまなものを提供してくれるようになるのには驚かされた。いい歳したオッサンがひとりでアタフタとしているのを見るに見かねてだったのかもしれない。とにかく店でかけるCDだの料理に使う調味料だの、さまざまなものを提供してくれるのだ。そしてもっとも多い提供となったのが、お手伝いである。店と厨房が離れているということもあって、博士とクロコ先生が帰国したあとは料理のサーブがなかなかスムーズに運ばないということがままあった。それを見た誰がはじめたのかはもう分からなくなってしまったが、カフェ・ビエンチャンでは、店におれがいなければ客が勝手に厨房に入ってきて中にいるおれに注文を出し、自らビールや飲み物を冷蔵庫から取り出して持っていくというスタイルが確立されてしまったのである。さらに空いた皿を厨房に下げたり、時によっては皿洗いまで手伝ってくれるお客さんまで出始めたのである。初めて来た客はその様子を見てびっくりした顔でよく口にしたものだ。
「どうなってるんですか。ここのお店は」
 おれにだって解るか。そんなこと。
 そして開店前後のカフェ・ビエンチャンを力強く支えてくれた博士とクロコ先生が帰国したあと、あらたなNGOが日本からやって来たのである。
 二週間ほど前にメールが入っていた。
“今度ドンドック大学のラオス語学科に語学留学します。住まいが決まるまでカフェ・ビエンチャンの空いている部屋に居候させてくれませんか? 店のお手伝いは何でもします”
 カフェ・ビエンチャンが開店するずいぶん前に、完成した厨房で開いていた飲み会にやって来たことのある女性。モリ・ヨシカだった。
 おれはニヤリと笑みを浮かべてメールを送り返した。
“いいよ。店の手伝いを頼むな”
 こき使ってやるからね。もちろんそれは書かなかったが、とにかくこうして懸案だった当面の労働力は確保されたのだった。

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