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第45回

■『カフェ・ビエンチャン今日の格言』名作集

 話は戻るが、ラオス正月=ピーマイである。
ピーマイは、厄払いと称して出会った人に水をかけるのが習いだ。
 かける方法はさまざま。コップの水をTシャツの襟元から背中に流し込んだり、盥に溜めた水を柄杓ですくって撒いたりバケツで撒いたりと、とにかく目についた人間を水浸しにしてしまえばよろしいというウォーター・バトルロイヤルである。かけられたら、かけ返す。水には水を。本義である厄払いなど、どこにもありはしない。疲れる。ただただ疲れる。そして疲れた先には怒りがくる。テメエラ、ええかげんにせぇよ!
 それでも水鉄砲で狙ってくる子どもたちくらいなら、まだ許せる。奇声をあげて追いかけまわすか、市営プールにやって来たところを捕まえて沈めてやるかすればすむことだ。だが水道に繋いだホースから水を噴出させたり、トラックの荷台に乗り込んで走りながらバケツの水をかけまくる若造どもがいるから手に負えない。しかもその水に絵の具を混ぜたりする連中もいるのだ。ヘタをすれば極彩色サイケデリック親父の出来あがりだ。
 気温が高いからかまわないと思うだろう。しかしこれが半日も外を歩きまわって乾く間もなく水をかけられ続けていると、体の芯が冷え切って悪寒がざわざわと這い上がってくるのである。実際、ラオスにやって来て最初のピーマイのときにはすっかり風邪をひいてしまった。以来、厄など付いたままでいいからと正月の間は一切外に出ないことにしていたのである。ビエンチャン在住の日本人を含めた外国人たちも同様で、正月休みついでにほとんどがラオス国外に脱出してしまっている。だからカフェ・ビエンチャンも休みにしようか。どうせ商売にならんことだし。
 などと思ったが二〇〇七年のおれはユンケル皇帝液とリゲイン飲んで目が血走ったやる気満々のビル・ゲイツだった。営業許可証問題が片付いてからは用事がないかぎりは定休日なしで連日営業を続けていたのだが、ここまできたら意地である。ビエンチャン中の商店・食堂・レストランが休みになるのを尻目に、ヤケクソでしっかりと店開きしてやったのだ。
 ところがである。客など来ないと踏んでいたにもかかわらず、ズブ濡れ疲れの居残り白人客がけっこういらっしゃって営業的には満足してしまったのだからわからない。その年の三月からカウンターの上に置いてある小さな黒板に、『カフェ・ビエンチャン今日の格言』と題して思いつくままの格言を書き出していたのだが、そこにたまたま書いていた名横綱・初代若乃花のお言葉が身にしみた。

“土俵には金が落ちている”

 金を稼ぎたければ土俵に上がって勝てということだが、転じて、稼ぎたければカフェ・ビエンチャンを開けろという意味だとおれは解した。金はカフェ・ビエンチャンに落ちている。深い。じつに深い。

 さて突然ではありますが、『カフェ・ビエンチャン今日の格言』のことが話題に上ったところで、店に掲げられた数々の心に残る格言をここに集めてみましょう。題して“『カフェ・ビエンチャン今日の格言』名作集”。解説においては“おれ”“わたし”“ぼく”の人称が入り乱れますが気にすることなくお手を拝借。パチパチパチ。
 ということでまずはこれ。

“ローマは一日にして成らず
  だが子どもは5分あればできる“
         【柳沢厚生労働大臣】

 少子化問題についての講演で「女性は産む機械」と発言し物議をかもした柳沢伯夫元厚労大臣だが、このように言えば問題にならなかったのにと、おれが作ったお言葉。店に来た婦女子たちが皆、うまい! と手を叩いてくれたのが何よりの証拠だ。

 “奢れる者は久しからず”
【平家物語】
 “奢らぬ者もまた久しからず”
【太閤秀吉】

 豊臣秀吉は天下を取ったあと、瓦を金で葺いたという豪華な邸宅を京都に建てた。その豪邸の名は『聚楽第』。しかしあまりのきらびやかさに、門柱に落書きされたそうな。その落書きが平家物語の一説。しかしそこはサル太閤である。機転が利く。ユーモアを解する。落書きの横に返歌を書き記したらしい。それが“奢らぬ者も・_”だ。奢る阿呆に奢らぬ阿呆、同じ阿呆なら奢らにゃ損そん! てなところか。昨今やたらと世間でうるさい勝ち組・負け組の心理が、これでもかと浮き上がってくる対句ではあるが、わたしも太閤秀吉のように人生一度は金に飽かせて奢ってみたい。ちなみに聚楽第を舞台にした宇月原晴明の伝奇時代小説『聚楽』は素晴らしい。一読を。

“明日世界が滅びるとも
今日林檎の木を植える”
【東欧の格言】
 “さよならはダンスの後にしてね”
          【倍賞千恵子】

 最初の格言は開高健が記したことでつとに有名。後者は昭和三〇年代の大ヒット曲。二つを続けて声に出し読んでいただきたい。わたしの言いたいことがお判りだろうか。なに? わからん? 明日世界が滅びようとも今日は美しい人妻たちとダンスをしたいってことだよ。同じような意味でドストエフスキーは『地下生活者の手記』に“一杯の紅茶のためなら世界が滅んでもいい”と書いたが、わたしはやはり紅茶よりもヒトヅマだと思うのだがね。

 “もっと光を!”
      【ゲーテ】
 “ベサメ・ムーチョ!(もっとキスを)”
      【トリオ・ロス・パンチョス】

 “もっと光を!”はゲーテが死ぬ間際に叫んだ言葉らしいが、わたしなら美しい女性看護士の肩を無理やり抱き寄せ、いやだいやだと身をよじるところを“ベサメ・ムーチョ!”と叫んで唇を塞ぐであろう(そんな力があるなら死なないかもしれないが)。いや。わたしだけではあるまい。人間一般が心の奥底に抱えているだろう普遍の真理である。ということでこの二つを並べてみた。深い。じつに深い。
『ベサメ・ムーチョ』は、世界中のミュージシャンがカバーしているラテンの大スタンダード・ナンバーだ。ビートルズもカバーしている。しかしわたしが好きなのは、なんといっても“トリオ・ロス・パンチョス”が唄ったもの。これがいいのだ。もっとキスを!

  “ダーッ!”【アントニオ猪木】
  “シュワッチ!”【ウルトラマン】
  “ピーッ!【黒木香】

 以上の掛け声格言三連は、店に来た男性客のほとんどが理解してくれた。しかし逆に婦女子客のほとんどは理解できなかったようである。ここではあえて解説はしない。理解できない婦女子は身近にいる三十五歳以上の男子諸兄に訊いていただきたい。

  “ゴー! ゴー! ヘヴン!”
             【SPEED】

 九〇年代後半に大人気だった沖縄出身の小娘四人組“SPEEDモの曲である。まだ幼い十代の彼女らが、テレビで”ゴー! ゴー! ヘヴン!“と唄い踊るのを見たときの衝撃は今でも忘れがたい。なにしろ”スピード(=覚せい剤)“が”天国にイッちまおうよ!“と唄っているのだ。日本はアムステルダムになってしまったのか。恐ろしい。
 スピードで思い出したことをもう一つ。一九七〇年代の末だから、わたしがまだ二十代のはじめである。アルバイト先の映画館でのことだった。仕事を始めて二週間も経った頃だろうか。先輩社員に連れられて、軽トラックに乗り、札幌市内にある五十箇所近くの契約場所に封切り映画の定置看板を張りに行ったのである。空は快晴。春も過ぎ北国の遅い夏が訪れようとしている爽やかな日だった。
 古い軽トラックを運転していたのは、蟹江敬三にそっくりな顔をした三十歳になったばかりのロック大好き男Sさん。持ち込んだSさん愛用のカセットデッキからは、ジャクソン・ブラウンの曲が大音量で流れ出ていたことを覚えている。
 そしてトラックを走らせて五分も経たないうちだった。
「吸う?」
 よれよれのダンガリー・シャツの胸ポケットからタバコを一本差し出すSさん。
「ありがとうございまーす」
 十代後半からヘビースモーカーだったおれは、ありがたく受け取ることにした。
 火をつけ、大きく煙を吸い込んだ。
 のみなれない味。
「どこのタバコですか?」
 Sさんはおっしゃったね。
「あ、それマリファナ」
うわっ! いいんですか? なんて野暮なことは訊かない。かわりに
「どうしたんですか?」
「友だちが十勝のどこかで取って来たんだよね。たくさんあるからやるよ」
 そう言ってプカプカ。
「どうも」
 そうしてぼくたちはヘラヘラ笑いながら映画の看板を張ったとさというお話。
 しかしこのマリファナうんぬんは、べつにSさんだけが隠れてプカプカやっていたわけではなく、仕事をしていたその映画館の主だった従業員全員がやっていたのだ。それも仕事中に。さすが大麻王国・北海道と言うべきか。それともセックス・ドラッグ・ロックンロールの七〇年代だったからか。いや。あの会社がおかしかったんだろうなあ、やっぱり。
 その後Sさんと看板張りに行くときは決まってヘラヘラ笑うようになり、ぼくたちは当然ながら労働意欲をなくして、途中で仕事をやめて豊平川に寝転びながら愛と平和について語り合ったものだった。でもヘラヘラ笑ったあとはすぐに眠たくなるので、それなら酒のほうがいいやということになり、深みにはまることもなく、四畳半のアパート三分の一を埋め尽くすほどにもらった山から抜いてきたばかりの生のマリファナも大半は捨ててしまった。ヘラヘラした青春の思い出である。

“一歩前へ。君のモノは
思っているほど大きくはない”
【アメリカの公衆トイレの注意書き】

 これはアメリカの男子公衆トイレに貼ってある注意書きの定番。一歩前に出て小便を便器の外に飛ばすなということだ。
 しかし! 男子たるもの自身の希望や欲望や野望と同じように、沈々も大きくありたいと願うものなのである。ときに一メートル離れていても便器に届いていると思いたいものなのである。若ければ若いほどそうなのである。
 だが五十を過ぎるとある日、沈々は大きいはずなのに失弧が希望位置まで飛ばなくなっていることに気づいて、ついでに本当はずっとむかしから自分の沈々は大きくなどなかったということにも気づいて、思いは沈々とするのだ。人生は深い。じつに深い。

“君の瞳に乾杯”
 【映画「カサブランカ」よりハンフリー・ボカートの台詞】
“吐くときは大水槽にお願いします”
【居酒屋チェーンのトイレの注意書き】

キザなことを言って酒を飲ませるのはいいが、吐くほど飲ませて店に迷惑をかけないでくれというカフェ・ビエンチャン店主からのお願いである。深い。じつに深い。

“未来は予測できない”
 【リチャード・ホーキング】
“あんた死ぬわよ!”
【細木数子】

天才物理学者対人気占い師。週刊新潮で何かと話題だった細木数子であるが、彼女のこの予言にだけはホーキングも太刀打ちできないか。人間はいつか必ず死ぬ。おれでも占えるのだが。

“ナマステ”【インドの挨拶】”
“ナマハゲ”【秋田のおばけ?】

べつに意味もなく並べてみた。しかし深い。じつに深い。

“若者に青春はいらない”
【ロマン・ロラン】
“伊東に行くならハトヤ”
【ホテル・ハトヤのCM】

 青春は老人にこそ必要だとジイサンになった文豪が嫉妬まじりに書き捨てた言葉だが、日本の老人にはハトヤがある! そういうことだ。

“命は地球より重い”
【テレビでよく使われる言葉】
“太ったんでないの?”
   【阿川佐和子】

地球よりも重いはずの命を減らしてダイエットに励む愚かさをわれわれはどう考えるのか。などという意味は一切なく、ビエンチャンに住む日本人婦女子はなぜ一様に太ってしまうのかという疑問を二連の言葉に託してみたもの。深くはない。まったく。

ということで『カフェ・ビエンチャン今日の格言』名作集。いかがであっただろうか。どれもこれも心に残る名言ばかりだったはずだ。できれば店でと同じように、ビールにジンにワインに深く泥酔しながら声に出して読んでいただきたいと思う。その意味するところの奥深さに感嘆し涙することは間違いなし。必ずやあなたの人生の糧となってくれることは間違いない。

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