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第34回

■ある日のパフューム“ア~ちゃん”村山との会話


“いらっしゃい”
“うぃ~す”
“今日は遅いね。ビール?”
“うぃっす”

 と返事をしながら奥の厨房に入り、冷蔵庫から大瓶のビアラオと冷凍室に入れて冷やしてあるグラスを取ってくる村山三十三歳JICAビエンチャン事務所職員。ついでに注文伝票にも自分で『ビアラオ―』と記入する。―は数字ではなく増えていく数量を記載する際に使う“正”の字の―だ。カフェ・ビエンチャンの常連はみなこのようにビールは自分で冷蔵庫から、ついでに伝票も責任を持って自己記入が基本となっている。紳士のスポーツであるゴルフのルールと同じであるのは、カフェ・ビエンチャンが紳士の社交場であるということと無縁ではない。

“まぁまぁまぁまぁ”

 ビアラオを自分のグラスに注いだあと、すでに飲んでいたおれのグラスにも注ぎ足してくれる村山。店主に対する大切な儀礼のひとつ。地の神に豊穣を願い、耕作の前には必ず数滴のワインを指先にとり大地に散らしたというシュメールの民を思い起こしていただきたい。今日もおいしいビアラオがいただけるのは、カフェ・ビエンチャンの店主様のおかげです。まぁまぁまぁまぁ…。

“どもどもども”

 と注がれるビアラオを遠慮なく受ける地の神…ではなくカフェ・ビエンチャン店主のおれ。

“おー、今日も新メニューがあるんですね”

 本日の手書きメニューを手に取る村山。ふた昔前のデザインが懐かしい細い銀縁フレームの眼鏡の奥の目が光る。
 パフューム“ア~ちゃん”村山は食い道楽である。日本にいたときも、雑誌などに掲載された美味しいといわれるレストランや食堂には足繁く通っていたらしい。しかし娯楽が極端に少ないビエンチャンに住んでいると、休みといえば食っているか飲んでいるかしかすることがないので誰もが食い道楽になる。新しいレストランがオープンしたと聞けば、必ず一度は行ってみるのがビエンチャン在住日本人の常識だ。別に“ア~ちゃん”村山が珍しいわけでも何でもない。そしておれもその常識に漏れず、うまいと評判の食堂やレストランには必ず通ったものだが、狭いビエンチャンともなればその数にも限りがあって遂におれはその方向をシフトすることにする。“うまい店探し”ではなく“まずい店探し”である。二軒見つけた。一軒はトンカンカム市場の近くにある北京餃子という名の小さな中華食堂。中国人のババアが作る定食の一品に入った黒焦げのハムは、ただ炭の味しかしないというとんでもない代物。しかも焦げた表面をどこまで剥がしていっても炭しか出てこない。分け入っても分け入っても炭の中。どうやって焦がしたものやら見当がつかない一品である。一緒に行ったブルースカイ・カフェの亀田オヤジがあまりのひどさに文句をつけると、作った中国人ババアに髪を逆立てて逆ギレされたというオチまでつく。
 まずいもう一軒はチャオ・アノウ通り。ベトナム物産館の前にあったシンガポール料理の店だ。とにかくここのカレー類は不味いということを通り越して、人類の絶望と悲しみを具現化したゲロとしか言いようのないひどいものだった。旨味ゼロ。甘さ辛さ苦さが混然としながら一体とならずにバラバラと浮遊するのみ。しかもドブの中でハーブが腐り発酵したかのような匂い。口にするや二秒もしないうちに吐き気がこみ上げる。舌があることを呪いたくなる。こんな店を見つけてしまった自分の背中を敬虔なイエズス会士のように永遠に自分で鞭打ちたい。幸いにしてこの店はもうないが、信じられないのは人類の絶望と悲しみを具現化したそのゲロカレーを口にしながら、言うほどひどくなかったですよと平気な顔でおっしゃった人間がいることだ。カフェ・ビエンチャンを作っていたときの現地助っ人第一号『前川“染め屋”佐知』と、後にカフェ・ビエンチャンの重要スタッフとなる『飲んだくれ“ハイな~!”荒』の二人である。いったい彼女らの舌や味覚はどうなっているのか。特に前川“染め屋”佐知の場合は深刻だ。関西の酒蔵の娘なのである。あれではコップに注いで二晩経ったダイエットコーラだって大吟醸だと判定してしまうに違いない。老舗の酒蔵が一つ消えるかもしれない危機である。
 それはさておきメニューを解説するおれ。

“トルコ風揚げ餃子が今日の新メニュー”
“おー。じゃあ、それ一つ”

 パフューム“ア~ちゃん”村山の注文に立ち上がり厨房へ。ちなみにトルコ風と名の付いた餃子ではあるが、トルコとは何の関係もない。もちろんトルコにこんな餃子があるわけもない。焼肉で出していたヤギ肉があったのでミンチにし、クミンを混ぜ込んで餃子の皮に包んだだけの即興料理だ。中東でよく使われる香辛料クミンの風味をしっかりと効かせたので、トルコ風でいいんじゃないかと安易に考えたのである。かつてソープランドのことをトルコ風呂と名付けていた日本人の遺伝子がなせる技であったか。しかしトルコの下に“風”と付けてトルコ風揚げ餃子としたところに注目いただきたい。あくまでも“ふう”である。おれがイメージしたトルコである。つまらぬ偽装などするまいという料理人としての良心である。吉兆には猛反省を促したい。

“うま~い、これ”

 出されたトルコ風揚げ餃子を口にして“ア~ちゃん”村山が叫び声をあげる。

“まあな。トルコ風だからな”
“なるほど”

 にこりともしないで答えるパフューム“ア~ちゃん”村山。痩せた細った体に白いワイシャツ。肉のない腰からすとんと落ちてしまいそうなグレーのスラックスは青山2パンツセールで買ったものか。

“だけどさあ、村山さんてビエンチャンで何してるわけ”

 わたしは訊いた。意味はない。ただ訊いただけ。脳が融けそうになるくらい暑いなかにい続けると意味のある会話など出きなくなるのだ。

“仕事してますよ”
“そうなんだ”
“そうですよ。サラリーマンですよ”
“JICA職員ってサラリーマンなの?”
“給料もらってますから。ホワイトカラーです。それよりパソコン借りますね”
“またかよ”
“パフュームの新曲が出たんですよ”

 言うや否や立ち上がり、厨房からおれのパソコンを持ち出してくる。

“あのさあ。言っただろ。勝手におれのパソコンにパフュームの曲ぶち込むなよ。しかも動画を。

 原稿を書くかDVDを見るかでしか使っていないおれのパソコンは、いつの間にか“ア~ちゃん”村山のパフューム宣伝機材になり果てていた。YouTubeでパフュームの動画をせっせとダウンロードしてきてはおれのパソコンにぶち込み、店にやってくる客たちに見せるのである。それが初めてくる客だろうと、日本のアイドルグループなど理解できるはずもない白人旅行者だろうとおかまいなしだ。唄い踊る小娘アイドル三人組の映像を見せながら滔々と英語で解説を加える“ア~ちゃん”村山を前に、アメリカ人の若者三人組がフリーズしていたこともあった。彼らは思い知ったに違いない。人の思惑など一切気にせず自分の思うままに行動する日本のオタクの恐ろしさを。わたしは確信した。“ア~ちゃん”村山に外交を任せておけば日本は安泰だ。
 しかしそれにも限度がある。おれのパソコンの中身はパフュームの映像と曲だらけなのである。五十を過ぎた男のパソコンではない。はっきり言って恥ずかしい。

“嫌なら削除すればいいんですよ。止めませんよ。おー。全然削除されてないじゃないですか。わたしが入れた映像”
“それが問題なんだよ。なぜか削除できないんだ。最近は曲が耳について離れない”
“おーっと。それだけでわたしのビエンチャンでの役目は終わったようなもんです”
“ビエンチャンでの村山さんの役目って援助じゃないの”
“パフュームのプロモーションもです。それより聞いてくださいよ、新曲。これが素晴らしい。オリコンチャートでも一位は間違いなし。コンサートのチケットも即日完売”

 言いながらパフュームと一緒に踊りはじめる“ア~ちゃん”村山。やっぱり彼に日本の外交は任せられないかもしれない。

“あ、村山さん”

 カフェ・ビエンチャンの牛タン中毒・焼肉大王がやってきた。しかしパフュームの映像を見るや留まることなく店の奥の厨房に直行。おれは直感する。映像と“ア~ちゃん”村山の踊りが終わるまで、大王は厨房の大テーブルで一人ビアラオを飲み続けているだろうことを。

“ここの振りがなんとも言えずにいいんですよ”

 映像に合わせて踊り続けるパフューム“ア~ちゃん”村山。ビエンチャンは暇だ。つくづくそう思う。

“そうだ。映画会の機材。事務所から借りてきますね”
“え? 大丈夫なの?”
“大丈夫です。DVDプロジェクター、任せてください”
“ビール、店のおごり”
“おー”

 かくしてカフェ・ビエンチャンでの定期映画会は実現の運びとなった。素晴らしい。許そう! Perfume!

“マスター、牛タン二皿”

 ビールを手に焼肉大王が店に出てきた。

“あいよ”

 厨房に戻る背中にパフューム“ア~ちゃん”村山の声が聞こえた。

“新曲出たんですよ~”

 外交は任せた! ア~ちゃん!

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