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第24回

■鈍と根はあるつもりだが運だけがない?

 デング熱もようやく治って、あとは気持ちよく泥酔するための肝臓力回復を待つばかりであったが、カフェ営業許可証発行の件は遅々として進まなかった。八月も半ば。一週間後には何とかなるというチャンタブンや役所の人間の言葉を信じて店を閉めてから、二カ月半という時間が経っていた。許可証再発行のための新たな店舗検査もすでに済んでいた。済んでいたのに、許可証が出る気配はすこしもない。
「店の前の雑草を刈って、店の中には富士山の写真を賭けたほうがいいな」
 その店舗検査の際に、観光局と保健所の職員とともに検査にやって来た観光警察のオッサンが、真面目な顔で言いやがったものだ。日本料理の店だから“富士山の写真”を掛けろというのは、いかにも安直な発想でおいおいだが、全員真面目な顔でうなずくから仕方なくそうですねと答えてしまった。そもそも店舗検査で発するような言葉か?
 しかし、ここまできて心証悪くして許可証が出なくなっては困りものだ。ゴマも擂れば賄賂だってくれてやるさの心境だ。
 賄賂といえば、ラオスの役所は賄賂天国である。どんな小さな役所であっても、担当者に対しては常に賄賂を手渡すというのが暗黙のルールになっているのだ。どうやら彼らは、賄賂をチップくらいにしか思っていないフシがあるみたいで、当然のように要求し受け取るのが普通になっている。
 もちろん払わなくても構わない。しかし払わないと作業が遅々として進まなくなる。賄賂を渡しても遅々として進まないのが、いっそうひどくなる。別に意地悪をしているというわけではない。社会主義ならではの官僚組織が硬直し、さらに不必要な形式主義がまかり通っているがため、正式にものごとを通すとえらく時間がかかってしまうようなのだ。そこに一生懸命働くのが大嫌いなラオス人気質が加わったらどうなるか。一時間で済む仕事が、一カ月かかるということになる。ひどいときには仕事が忘れられて、棚の隅で書類が埃をかぶっているということにもなるのだ。映画『生きる』のなかで描かれた、やる気のないお役所そのままだ。
 もっとも、どんなことでも遅れて構わない気にしないという、ラオス人的スローライフな心と時間の余裕があればそれでもいいかもしれない。しかしおれのようにどうしても急がなければならない事情ができたとか、自国の時間帯で仕事のスケジュールをこなさなければならない出張業務の外国人ともなると、そうそう悠長に構ってもいられなくなる。
 だから賄賂を渡す。おれも渡した。渡したのは、営業許可証を出す観光局の担当者。煩雑な書類の書き込みの代行をしてやると申し出てくれたのだ。A4で三十ページはあろうかというラオス語の書類に、観光局が満足する数値や文言をラオス語で書き込まねばならないのだから、こちらとしては願ったりだ。二十ドル包んだ。
「任せておきな。一週間もかからんよ」
 歳の頃は三十前半か。平べったくてごつい顔した担当者が、まったりとした口調で言った。
 おれはその言葉を信じた。賄賂の力を信じた。いや。信じたかった。ヤフーの占いコーナーでも、その月の乙女座は“すべてが好調に進む”と出ていた。細木数子に占わせたらどうなのかとも思ったが、どうせ“あんた死ぬわよ”程度のことしか出てこないだろうから、そちらは考えないことにした。
 なのに一週間で終わりなどしなかった。
「村役場に行ってこの書類に村長のサインをもらってきて」
「おれが?」
「そう。あんたが」
 賄賂もらったくせに、必要な他の役所の長のサインはおれに取りに行かせるのである。なにが“すべてが好調に進む”だ。“めざましテレビ”の占いも当たらないが、ヤフー・サイトの占いも全く当てにならない。あらためてホーキング博士の言葉を思い出した。“未来は予測できない”。
 しかし文句も言っていられないので、おれは言われるがまま住んでいるミーサイ村の役場に行って村長に会った。村長といっても、そのへんに住んでいるオッサンだ。住民登録や村内警備業務のほか、夫婦喧嘩などの仲裁までする、江戸時代の庄屋や長屋の大家のような仕事を受け持っていると思えばいいか。
「あのう、ここにサインがほしくてですね」
 書類を渡す。まったく上達しなかったラオス語が、一人で役所通いをするうちに、少しは使え聞き取れるようになっていることに驚く。必要こそが語学の上達を促すということか。
「いまか?」
 村長があからさまに嫌な顔をする。
「これから昼飯なんだよな」
 サインするのに一時間かかるってか? おれはグッと不満を呑み込み
「頼みますよお。お願いしますよお」
 と満面の笑みで土下座外交を繰り広げる。小林よしのりに何言われようと構うもんかい。
「どうしても、いまなのか?」
「お願いします」
 媚びた笑みをべったりと顔に貼り付けて、おれは言った。
 大げさなため息を吐いて村長は書類にサインをした。
「コプチャイ・ライライ(ありがとうございます)」
 と笑顔で書類を受け取った。それから五〇〇〇〇キープ(約五米ドル)をさりげなく手渡し言い加えた。
「キン・ナム・ドゥー」
 水でも買って呑んでくださいよ。『旅の指差し会話張・ラオス語編』著者であるカメダさんから教えてもらった、賄賂を渡すときの決まり文句。さすが使える会話帳の著者である。
 苦りきっていた村長の顔が一瞬にほころんだ。わかりやすいオッサンだぜ、とニコニコしながら日本語で言ってやった。しかしこれで終わるのならお安い御用というものだ。
 しかし終わるはずもなかった。ここはラオスだった。観光局の野郎、一週間で全部終わると言いながら、終わる気配は全くなし。それどころか一週間ごとにおれを呼び出して、区役所に行ってサインをもらって来いだの警察に行ってサインしてもらって来いだの、サイン取得の使い走りをさせやがったのだ。賄賂を取ったんだからお前がやれと言いたいところだが、逆切れされるのも嫌だからそこは堪えた。だがなぜ、“ここと、ここと、ここにサインを取りに行け”と、行く場所を一度で言わないのだ? そう言われたら、一日ですべて済んだだろう。必要なサインは、あらかじめ決まっているはずなのだ。
「クロダさん、それがラオスなんですよ」
 愚痴るおれにカメダさんが笑って答えた。
「大変ですね」
 ちょうど夏休みで遊びに来ていたフリー編集者のHさんが、一緒にビールを飲みながら同情するように言ってくれた。
 一緒に来ていた奥さんが首を振った。
「大丈夫! わたしが来たからには絶対に運が向く。わたしにはそういう力があるみたいなの」
「そうなの?」
「そう。クロダさんはこのあと絶対に運が向くから大丈夫!」
 奥さんは大手出版社の営業をやっているらしいが、それと運を呼ぶ力がどう繋がるのかはわからなかった。しかしその言葉は妙に説得力があった。
「クロちゃんは大丈夫」
 小学生になるHさんの娘さんが声をあげた。
「そうか。大丈夫か」
 おれは立ち上がった。
「よし! 次の店に行こう!」
 そして日が沈み暗くなった歩道を歩きながら声をあげた。
「飲むぞ!」
「飲みましょう!」
 Hさんが言った。
 とたんに、踏み出したおれの右足が宙をさまよった。
 視界がストンッ! と落下した。
 コンクリートの蓋が開いていた側溝に墜落していた。
 うしろにいたカメダさんが大笑いしていた。「ビエンチャンでドブに落ちた日本人なんて、クロダさんが初めてですよ!」
 おれは思った。運など信じない。あなたはあまりにもイジワルすぎる。
 ドブの臭いが足元から立ちあがった。

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