WEB本の雑誌

第33回

■天国に行きたくなったらラオスで酒を飲めばいい

 カフェ・ビエンチャンにやって来る客は、店主にとってありがたいことに、ほとんどが大酒飲みばかりでありながら、まったくと言っていいほど手のかからない客ばかりだった。というのは以前にも書いたが知ったことかと何度でも書くのは歳をとったからだ。
 で、客たちのこと。やって来る客のほとんどは、酔って絡むとか暴れる泣く狂う偉そうにするといった、酒飲みたちが少なからず持ち合わせている劣酔遺伝子の発露もなく、みなそれぞれのテリトリーを店の中で作りながら、それぞれの世界で酔っぱらっていることを基本とした酒飲みの手本のような素晴らしい客ばかりだった。たまに三〇数度の気温下であるにもかかわらず、氷点下のぺテルスブルグで物乞いしているホームレスみたいなニットキャップをかぶってうろつく言語障害気味の若い旅行者や、ビザの書き換えにバンコクからやって来る頭の中がSEXという文字でいっぱいの天ぷらオヤジどもが混じることもあったが、それも目立たない店構えのためかごく稀で、店はいつもおだやかに楽しく煙たく(これは牛タンを焼く煙であります)過ぎるのが常だ。客のほとんどがビエンチャン在住者ということが理由だったのかもしれない。
 どういうことか。
 こうだ。
 ラオス人はとにかく酒好きだ。夜ともなれば皆ビアラオで酔っぱらっている。休みの日は朝から家の前に出て酔っぱらっている。しかし特徴的なのは、酒を飲みながら仕事の話をしたり議論をしたりがほとんどないのだ。だから言い合いをしたり絡んだり喧嘩をしたりもほとんど見ない。ただ陽気に歌って踊ってという酒なのである。ついでに言えば小娘ども小僧どもをくどいているだけの酒である。そんなラオス式酒飲みの空気が在住者に染み付いてしまったに違いない。だからカフェ・ビエンチャンに来る客は、ただただ陽気に酒を飲むだけ。それが徹底していた。ユウさんの店で喧嘩をしていた青年海外凶力隊員諸君は、おそらく在住歴が短いということだったのだろう。酔ったら笑え楽しめ歌え踊れ。ならば天国はそこに現われる。そしてカフェ・ビエンチャンは夜な夜な天国になった。
 みたいなことを書くと、何を大げさなという声が必ず聞こえてきそうだが、天国なんて所詮は思い込みだ。思わない奴にはどうやったって見えはしない。おそらく幸福ってやつもそうなのだろう。実際にあるかないかではない。ポール・サイモンは唄ってる。気持ちよくなっちまおうぜ! そうすれば人生最高さ! イエィ! これはマリファナ吸ってハイになってる歌だけど、気分的にはそういうこった。
 ちなみにカフェ・ビエンチャンで劣酔遺伝子を発露した客というのが二人だけいて、一人はアル中のカナダ人。名前はバンクーバー。カナダのバンクーバー出身だということで勝手に名付けたのだが、この男はとんでもない性悪アル中だった。歳は三十二,三といったところか。短く刈り込んだ髪。長袖ワイシャツにコットンパンツという服装はどう見ても旅行者ではないが、その服がうっすらと汚れているように見えるのは在住者でもないということか。要するに正体不明。怪しい男だった。
 初めて来た夜は、何事もなく終わった。持っていたトランプでマジックまで披露し、なかなかに陽気で楽しい酒だった。だが次の夜に現われたバンクーバーの様子は前夜と一転していた。陽気さは影を潜め鬱の雲が頭の上を漂っているのが見えた。そして飲むほどにその雲は厚くなっていった。
 閉店を告げた。するとどうだ。酒代が違うと難癖をつけ路上にウンコ座りしたような目つきで睨みつけてきやがったのだ。そのうえクズだの嘘つきだのとさんざん悪態吐いて金を払わずに出て行こうとする始末。なめられてたまるかとおだやかに、しかし極真空手高段者のような目つきで睨み返してやったのは言うまでもない。
「払いな」
 だがバンクーバーは筋金入りのアル中だった。さらにカフェ・ビエンチャンに来る前から流し込んでいたアルコール量も限界をはるかに超えていたようで、極真空手の恐ろしさを理解できる状態ではなかった。
「クズ野郎!」
 言いやがった。故大山倍達の霊がわたしの背中に降りてきて乗り移ろうと構えていた。
 延々と続くかと思われた睨み合いを収めたのは、たまたま店にいたフランス人旅行者だ。やばいと思ったのか、それともわたしの背中の大山倍達に気づいたのか、フランス語を解するらしいバンクーバーにフランス語で話しかけ、なだめすかした末に金を払わせて追い出してくれたのである。
「あいつは駄目だ。相手にしないほうがいい」
 素敵なフランス野郎の言葉におれ(えー、突然ですがここから人称は“おれ”に戻ります。理由はありません)は頷いた。
「御意!」
 しかしバンクーバーはアル中によくある性格を発揮して、翌日もやって来る。
「今日は酔っぱらってないから飲ませてくれ」
 言いながらふらついていた。おれは見ていた。バンクーバーが昼間から近所のフルーツジュース屋で浴びるようにビールを飲んでいたのを。ジュース屋でビールだぜ!
「帰りな。お前には酒は出さんよ」
「頼むよ。明日はベトナムに発つんだ。ビエンチャン最後の夜なんだ」
 アル中の言葉は新婚夫婦の愛の誓いみたいなもんだ。ほとんど信用できない。案の定だった。バンクーバーは翌日も顔を出したのだ。ベトナム行きはどこかに消えてなくなったようだった。
「やあ。今日は素面だぜ。本当だ」
「何言ってやがる。昼間、ビアラオ手に持って歩いてるのを見たぞ」
 ビエンチャンは狭い。アル中が隠れて酒を飲む場所など存在しない。
 結局バンクーバーは四日ほどカフェ・ビエンチャンにやって来たが、そのたびに追い返されて姿を消した。
 劣酔遺伝子が発露した二人目は常連客のウインさん。日系の運送会社を取り仕切っているミャンマー人。酒好きでいつも泥酔しているが気持ちのいいオヤジである。しかしその夜の泥酔は度を越していた。牛タンをさんざん食い、持ち込んだジョニ黒を隣り合わせた客と飲み干すや、おれが厨房で料理作りに追われているのを知ってか知らずか、いや、おそらく酔っておれのことなど眼中にもなく、金を払わないで帰ってしまったのである。客に知らされたおれは叫んだね。
「無銭飲食だあっ!」
 翌朝、電話をかけるとあわてた声でおっしゃった。
「あ、あ、あ、クロダさん。いまどこにいるの? すぐ行く。いくらいくら? わかってるわかってる。すぐ行く」
 すぐに飛んできた。
「いやあ。払ってなかったんだよね。ごめんね。払ったと思った。酔っぱらってね。あ、どこ行くの。ノンカイ? 買い出し? 車で送っていく。大丈夫。乗って乗って」
 まったく楽しくてこまったオヤジだ。
 さてここでいよいよ登場するのは、パフューム“あ~ちゃん”村山である。じつは前回パフューム“アーちゃん”村山と書いたところ、当人からチェックが入った。パフュームはPerfumeに。“アーちゃん”の音引きは“~”にして、“ア”は“あ”に直してくださいだと。
 Perfumeというのは、現在ヒット街道驀進中のオタク系テクノポップ・三人組小娘アイドルグループの名前である。そのなかの一人が“あ~ちゃん”と呼ばれる小娘。そう。ご察しのとおり、JICAに勤めるパフューム(変換が面倒くさいからこのままにする!)“あ~ちゃん”村山は、この小娘アイドル・グループの熱狂的オタクファンなのだ。まだメジャーとなっていなかったグループを、仕事であるラオスへの援助もそこそこに、他の客の迷惑も顧みずカフェ・ビエンチャンで勝手に曲を流し連夜一人プロモートし続けた恐るべき男。そして一方でカフェ・ビエンチャンでの映画館設営を機材面で強力にサポートしてくれた男である。
「恐縮です…」
 さて。パフューム“あ~ちゃん”村山が来たようだ。

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