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第25回

■地球崩壊

 八月末。ようやくのことで観光局から営業許可証が発行されると連絡が来た。銀行口座が凍結されて三ヵ月半。いつ発行されるのか聞いてもヘラヘラとした顔で“来週”と言うばかりだった担当者が、今回ばかりは断固かつ自信たっぷりの口調ですぐに取りに来いとおっしゃる。
 遂にきたか! と叫び出そうといういっぽうで、いやいやまだまだ安心するなと、ラオス的どんでん返しに散々苦しめられた思いが頭をよぎる。とにかくこの“来週”という言葉にどれだけ苦しめられたことか。
「ほんとうに来週出るのか?」
「大丈夫。来週だ」
 言われるたびにその言葉は反故にされてきた。上司が出張中だの資料がなくなっただの理由はさまざまあるが、担当者自身がいつ出るのかわからないのではどうしようもない。そうなるといくら怒ろうが無駄というものである。だから最初のうちは、お金を融通してくれた人に銀行口座凍結解除がなったと伝え、日本で引越しを今かと待つ鋼鉄の妻にも来週には帰国すると連絡していたのだが、期日が来るたびに駄目だという繰り返し。完全な嘘つき野郎である。そうなると確実に手元に許可証が来ないかぎり、口座凍結になりそうだなどと安易に口にはできない状況に陥ってしまっていた。ただ口を閉ざしてビエンチャンの青い空を仰ぎ見るのみ。借金で進退窮まった啄木の心情が身にしみた。

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙われにし似るか

 そして三ヵ月半だ。ラオス人の言う“大丈夫”がすこしも“大丈夫”でないことくらい、それまでのことから重々承知しているつもりだったが、それでも今回ばかりは期待するだけの理由があった。
 三日前に許可証に貼る写真を持って来いと伝えられていたのだ。
 そのとき担当者の下で働く女事務員が“大丈夫よ。来週には必ず出るから”と言ってくれていたということもあった。彼女は自分が直接関わっていないということもあってか、担当者が鼻歌のように軽々しく口にする“大丈夫”という言葉はめったに言わない女性だった。いや。言わないでほしいというお目出度いオッサン特有の願望であったか。それに毎朝事務所にご機嫌伺いに行くたび、クッキーやらチョコレートやらの差し入れをして手懐けていた。ついでに日本にいる妻が難病で命が危ないのだが、銀行口座凍結で帰る金がないといささか大げさに伝えてもあった。それが効いたのか、それとも金のない日本人を珍しいとでも思ったのか、いろいろと慰めの言葉をかけてくれるようになっていたのである。そうなると、白血病で余命いくばくもないはずなのに、健康的に頬の膨らんだ女優が主人公となるフジテレビの安直なテレビドラマか、必ず登場人物が難病になって死んでしまう韓国ドラマならば、二人は確実に恋に落ちるところだったろう。しかしそんな気配は一切あるはずもなく、ただただ純粋に心配してくれていた。と思い込みたい苦境の海に溺れ漂うおれがいた。
 そんな彼女が、である。写真持参の際に“大丈夫”と言ってくれたのである。おれはその言葉に縋った。許可証に貼る写真を持参となれば、許可証は出ることだけは間違いないだろう。問題は、それがいつなのかだ。“大丈夫”男は例によって“来週”などと言ってはいたが、これまでの経験からいって遅くなることはあっても早まることはまずないのがラオスだ。
 それが写真を持っていって三日目に発行の連絡が来たのである。
 信じられなかった。
 しかし信じたかった。
 叶わぬと諦めていた恋を告白されたアンナ・カレーニナの心境である。
 Tシャツに短パン姿だったおれは、襟付き半袖シャツにコットンパンツという姿に変身すると、カフェビエンチャンから歩いて十五分ほどのタラート・チン(中国市場)近くにある観光局へと急いだ。
 ところで服装についてだが、ラオス人は日常においては、男であれば襟付きのシャツに長ズボン、そして革靴という服装を重要視する。役所や銀行など、公の場に行く場合は尚更である。もし短パンやTシャツなどで行ったら、たとえヴァージン・グループ総帥のリチャード・ブランソンだろうがマイクロソフトのビル・ゲイツであろうが見下され、まともに受けあってくれないことは確かだ。見た目を最重要視するのがラオスなのである。まあそこのところは、リクルートスーツなるものが存在する日本と文化的に相通じる部分があるかもしれない。だから店でもTシャツ短パンという姿を崩すことのない二十代からの服装自由業者であるおれではあったが、すぐさまラオス服装仕様へ衣替えしたというわけである。ここでせっかく発行された許可証が、服装ごときでフイなったら目も当てられないというものだ。お望みならば仮装だろうが女装だろうが何でもやってやろうじゃないかの心意気であった。
 外に出た。
 空は雲ひとつない青空。
 とっくに雨季ではあったが、ときたま早朝に通り雨が来るだけで、ここ一週間ばかりは本格的な雨は降ってはいなかった。悲願達成の前兆であったか。
 おれは逸る心そのままに観光局へと早足で向かった。
「出たぞ」
 事務所の机にふんぞり返って、偉そうなうすら笑いを浮かべた担当者が許可証を差し出した。
 それは四〇センチ×二〇センチほどの表彰状のような許可証だった。許可についての細々としたことがラオス語で書かれ、左上にはTシャツ姿でふざけた笑いを浮かべているおれが写ったパスポートサイズの写真が貼ってある。本来ならば、この写真に写るときも襟付きのシャツを着なければならないのがラオス流なのだが、とりあえず手元にあるものを持って行ったがためにこうなってしまったのだ。撮り直しを言われても仕方がないところだったが、なぜかそのまま仕様となってしまったのである。こんないいかげんなところも、いかにもラオスらしい。
 おれはしげしげと許可証を見た。
 思わず口元がニヤケてくる。
「よかったわね」
 女事務員が声をかけてくれる。
 うなずいたおれは、大きく息を吐いた。
 長かった。
 しかしこれで凍結された銀行口座も使えるようになり、金が引き出せる。
「コプチャイ・ライライ」
 おれは礼を言って観光局を飛び出した。銀行に行くのだ。
 太陽がまぶしい。しかしそのまぶしさが心を浮き立たせた。
 銀行はメコン河沿いにあるBCELという銀行。
 口座作成を受け付ける狭い事務所に駆け込むと、おれの口座を凍結しやがった無愛想な女、口座作成の責任者に許可証をたたき付けた。
「許可証だ。すぐさま口座を使えるようにしろ!」
 女は許可証を手に取り目を通した。
「さっさとせんかい!」
 日本語で言ってやった。
 女が許可証を差し出した。
 笑いはない。
 それを悔しさとおれは判断した。何とか許可証なしで金を引き出そうと、しつこく彼女のもとに通い詰め無理を言い募っていたせいで、彼女はおれに不快感を隠そうとはしなくなっていたのだ。
 それが今日決着をみる。
 彼女が口を開いた。
「駄目。観光局の許可証に加えて市の納税課と税務署の許可証。全部で三つの許可証がなければ口座からお金は下ろせない。前に言ったはずよ。三点セットじゃなければ駄目」
 地面が崩れ落ちた。地球が崩壊した。
「だが観光局の許可が中心で、あとは付随した許可証だろ」
 観光局から出される営業許可証さえあれば、取りあえずの店舗営業は問題がない。あとの許可は付随的なもので、下りないということはないと聞いていたのだ。ならば観光局の許可証がありさえすれば問題ないではないか。おれはそう踏んでいた。
 しかしラオスの大官僚主義は日本官僚様と変わらず、日常はいい加減なくせにこういうときだけクソ真面目だった。
「市の納税課と税務署の許可証はすぐに出るのか」
「よくはわからないけど、観光局よりは簡単でしょ。一週間もあれば大丈夫よ」
 責任者の女は哀れんだ表情で言った。
 一週間?
 信じられるか!
 おれは帰国することにした。
 札幌で新しい住処を見つけ、引越ししなければならなかった。

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