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第23回

■愛とデング熱の日々

 朝から調子が悪かった。どうにも体がだるい。体の芯が鉛を含んだように重くて動くのも辛かった。体温計がなかったのでわからないのだが、熱もあるのだろう。頭のなかに霞がかかったようで意識も薄れがちだ。ぐるぐると目も回っている。
 幸いにして店はずっと休んでいた。仕入れも仕込みもない。寝室のある二階で横になることにした。
 それまでも風邪をひいて高い熱を出したことはある。しかし熱があっても高い気温のせいで、それが熱なのかどうかさえわからなかった。だから寝込むこともなかった。フラフラになっても店を開けて料理を作ることはできたし、ビールだって飲み続けていた。
 しかし今回はすこし様子が違っていた。起きていられないのだ。とにかく横になりたかった。
 床に広げたマットレスの上に横になり、うとうとしかけてどのくらいたった頃だろうか。携帯が鳴った。窓から差し込む西日が目に痛かった。
「聞きました。店閉めてるんですって? いまビエンチャンに着いたんですよ。飲みましょう!」
 みんなが親しみをこめて博士ならぬバカセと呼んでいるI君だった。文化人類学の博士号を取るために、ラオス中部の山村に調査に来ている青年学徒だ。ラオスにはとにかく日本からやって来た博士だの研究者だのがやたらと多くいるが、I君もその一人である。ビエンチャンにいるときは、なにかと店に来てくれるうれしい常連だ。
 おれは答えた。
「お、おおうっ!」
 酒の誘いはすべて受ける。たとえ具合が悪かろうと。亡き祖母の教えである。
“たとえ明日世界が滅びようとも今日酒を呑む機会があれば呑め”
「じゃあメコン河の屋台で待ってます」
おれはマットから体を引き剥がした。
 結果。
 倒れた。
 そして夜中。激しい頭痛に襲われたおれはマットの上を転げまわった。頭の中に入り込んだボブ・サップが、巨大なハンマーを頭蓋骨の内側に振り下ろしているような痛みだ。風邪で頭痛を引き起こしたことは何度もあるが、こんなのは初めてである。熱はあるようだったが、それよりもただ頭が痛かった。
 翌日。店の常連に電話して体温計を持ってきてもらい熱を測ると三十九度あった。頭痛は治まらない。酒の席で具合が悪いことを察してくれていたI君がやって来て言った。
「デングですよ」
 デング熱は東南アジアでポピュラーな病気だ。蚊を媒介にして発症する細菌性の病気である。高熱を伴った激しい頭痛や関節痛が特徴。特効薬はない。安静にして栄養剤を飲み、じっと症状が去っていくのを待つしかない。だからデング熱に罹ったラオス人は水分補給のためにココナッツジュースを飲みまくりながら、ただひたすらに寝るだけだという。マラリアのように後遺症はないが、四つあるデング熱の型のうち、同じ型のデング熱にもう一度感染すると出血性デング熱へと変じて危険らしい。罹るかどうかは運次第。蚊の皆様にお願いするしかない。
 てなことはまったくわからないおれは、バカセI君に付き添われて、とにかく病院に行った。点滴を受ければすぐに改善に向かうというのがI君のデング豆知識であった。
 ところが店からバイクで五分ほどのところにある救急指定マホソット病院に行っても、点滴をしてくれないどころか注射もしないで飲み薬をくれただけである。その薬もタイ製の風邪薬。そのへんの雑貨屋で売っているのと同じものだ。
「治るのか? これで」
 おれはI君を見た。
 I君は首をかしげた。
「専攻は文化人類学なもので…」
 指導教官にI君への文化人類学博士号授与を思い止まるよう投書してやろうと思ったが、頭のなかにいるボブ・サップの暴れかたはますますひどくなってそれどころではなかった。
 家に戻ったおれは、再び倒れた。
 翌日になると、友人知人が入れ替わり立ち代わり様子を見に来てくれた。海外に住んでいて心細くなるのはなんと言っても病気になったとき。それをわかってくれているのだろう。とにかく嬉しかった。
 が、しかし。どす黒く土色になったおれの顔を見ると、そこに死相を見たのか、みな一様に後ずさりして曖昧な笑みを浮かべながら足早に帰って行った。嗚呼、無常! である。
 あとで知ったのだが、デング熱は肝臓を弱めるらしい。そのため顔色が極端に悪くなるのだ。
 やばいと思った。こうなったら日本大使館に助けを求めるしかない。少ないながらも納税者である。大使館付きの日本人医師に助けを請うて何が悪かろう。
 おれは震える手で携帯を手に取った。
「あの、高熱と頭痛がひどくて…」
 幸いにして携帯に出てくれた日本人医師におれは症状を説明した。とても丁寧な対応と親身な言葉遣いにホッと胸をなでおろす。国はわれを見捨てなかった。
「なるほど」
 医師は大きな声で言った。
「症状を聞くかぎり完全なデング熱です。命に関わる。すぐに入院したほうがいい」
 耳を疑った。デング熱は同じ型に二度罹らないかぎり、危険はないはずじゃないのか?
 しかし医師の声は緊急を要していた。
「ビエンチャンの病院じゃ無理だ。ウドンタニの病院に行ってください。車はありますか」
「いえ」
「じゃあ大使館で車を出しましょう。ウドンタニの総合病院まで運びます」
 ビエンチャンから車で二時間ほどの街にある総合病院。ビエンチャン在住の外国人のほとんどは、ちょっとした病気になると必ず行く病院だ。ラオスの病院は危なくて診てなどもらえぬというのである。まあ、診療時間中にビールを飲んでいたり、交通事故にあっても赤チンを塗るだけであとは寺に行ってお祈りしろというような医者ばかりとあっては、そう考えるのも無理はない。しかしおれには問題があった。海外在住のための長期保険に入っていなかったのだ。ラオスの病院ならまだしも、タイのそれなりの総合病院での治療となると、保険がなければどれだけ治療費を取られるかわからない。
「ところで治療費はどのくらいかかるでしょうか」
 高熱と頭痛に見舞われながらそんな質問が口から出てしまうというのは、貧困層出身者ゆえの悲しさというものだろう。立て万国の労働者! パワー・トゥ・ザ・ピープル!
「そうですね」
 ブルジョア階級の医師が答えた。
「検査と二週間の入院加療で十万円くらいでしょうね」
「…日本円ですか」
「はい」
「考えておきます」
 おれは即座に携帯を切った。
 十万円あれば大型の冷蔵庫を一台と冷凍庫を買っていた。いや。そもそも海外在住者用の保険にだって入っていただろう。海外在住者用の保険は、掛け金が一年で十万円はするのだ。しかも掛け捨て。
 ところで保険の話が出たので言っておくが、日本で売られている入院保険や生命保険というのは、保険金が出るよりも出ないほうが確率的に多いということを心しておいたほうがいい。鋼鉄の妻が鼻の中に出来物ができ、手術したときがまさにそうだった。入院ナシの手術だったが、担当の医師は保険が出るはずだから診断書を出しましょうとわざわざ書いてくれたにもかかわらず、加入していた保険屋は鼻に関する手術は、保険金は出ませんなどと言いやがったのだ。入院なしの手術に関しても保険金が出るはずの保険にもかかわらずだ。頭にきてよくよく問い詰めてみると、保険金がおりる病気や怪我よりも、出ないと規定された病気や怪我のほうがずっと数が多いんだと。まったく何が一生安心だって。ついでに書いとくけど、鋼鉄の妻の鼻の手術に対して保険金がおりなかったのはアメリカ系のAFLACであります。まあ、そこだけじゃなくてどこも同じだろうがね。
 で、話は戻ってデング熱だ。
 結局おれはウドンタニの病院は諦めたのだが、十万円という入院治療費にショックを受けたせいなのか、その話を聞いた夜には熱が三十八度に下がってしまったのには驚いた。これがほんとうのショック療法か。とにかくその後、約十日間。地元ラオス人に倣って水分を取り、栄養補給に勤しみながらただひたすらに寝ていたのが功を奏したのだろう。おれはようやくのことでデング熱から生還した。
ボブ・サップもどこかに消えた。気がつくと短パンのウエストがゆるゆるになっていた。
 つくづく思った。ラオスは面白い。いや。海外に出るということはなんと面白いことか。デング熱なんて、日本にいたら経験せずに終わっていただろう。はははは。人生、なんでも楽しいと思ったほうが勝ちだぜ!
 そう思うことにした。だが銀行口座凍結は、まだ解決しないでいた。酔っ払うしかないか。弱った肝臓を抱えながら、全快祝いにおれはメコンの河沿いに並ぶ屋台へと向かった。

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