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第31回

いまさらだが厨房で楽しく踊るわたしはやはり天才だった

 十二月に入ると、それまでの暑さが嘘のように気温が下がってきた。昼間は二十五,六度まで上がりそれなりに暑さは感じるのだが、夜になると一挙に二十度を切る日も珍しくはなく、さすがにそれまでの短パンTシャツという格好では震えがはしった。冬である。思いもかけなかった営業許可証取得のゴタゴタに、サッカー・ワールドカップでの日本代表の惨敗があった。それまで時代の寵児のように扱われてきた若い成金トレーダーが、粉飾決算とやらで検察の捜査を受けるや世紀の大泥棒と叩かれもした。日本が歓喜の優勝を果たした第一回WBC(ワールド・ベースボール・クラッシク)もトリノで行われた冬季オリンピックも、ビエンチャンにいると見ることは叶わず、まるで世界の果ての出来事だった。大好きな作家だった久世光彦さんが亡くなった。楽しき少年時代を囃し立ててくれた天才青島幸男も死んだ。お坊ちゃんの安倍首相は女房とおててつないでわが世の春だった。まさか翌年に自ら政権の椅子を投げ出すとは思ってもいなかっただろう。そして鋼鉄の妻の難病。札幌の住まいの引越し。いろいろとあった二〇〇六年も、もうすぐ明ける。ビエンチャンでの生活も二年を過ぎ、わたし(さて突然ではありますが、ここから人称表記を“おれ”から“わたし”に変えさせていただきます。理由は気分が変わったから。いやいや、そういうのはやめにしてぜひとも統一した表記にしましょうよ。読者もそのほうが読みやすいですからなどと編集者のいかにもな意見が聞こえてきそうだが、無視します。五十を過ぎたおっさんが、授業をさぼって仲間と群れながらゲーセンでタバコふかす中学生みたいに“おれ”もないだろう。もっとも気分によってはすぐにでも中学生に復帰するかもしれないのだがね)の心も体もすっかりラオスの日常に馴染んでいるようだった。
 波乱万丈の一年にあって、再開したカフェ・ビエンチャンは順調に客足を伸ばしていた。再開からしばらくは客の入りもそれなりではあったのだが、十一月の末くらいからはっきりとした伸びを見せはじめていた。まさか十二月以降も伸び続け、毎月売り上げの記録を更新するとはその時点で思いもしなかったが、とにかく忙しくて目がまわりそうだった。買出しから仕込みや掃除、調理に給仕に皿洗いと一人で切り盛りしているのだから当たり前だ。しかし忙しいが、料理作りが俄然楽しくなってきていた。理由はいろいろあるが、メニュー構成の仕方を完全に変えたのが大きかった。牛タン炭火焼きや豚角煮などの定番はそのままだが、それ以外は毎日メニューを変えることにしたのである。
 早朝、トンカンカム市場の売り場を見て歩き素材を選択しながら、その日作る料理を決める。メニューはその日の気分。しかも必ず新しいメニューを加える。ジャズでいうところのインプロビゼーション。目指すは厨房のキース・ジャレットである。だからそれまで壁に貼っていたメニューをやめ、毎日開店前にA4紙にマジックペンでメニューを書き出すのが日課となった。たとえばある日のこんなメニューが手元に残っている。
 
 豆腐とクレソンの山盛りサラダ
 おつまみ三種盛り(自家製松前漬け・焼き茄子のみぞれ和え・自家製カクテキ)
 厚焼き玉子
 自家製ピクルス盛り合わせ
 冷やしトマトの自家製バジルソースぞえ
 自家製スモークレバーとチーズ盛り合わせ
 豚マメ(腎臓)とハツ(心臓)のオイスターソース炒め
 ゴーヤチャンプル
 ザッキ(ヨーグルトクリーム)のポテトサラダ 
 オクラのザブジ風
 豚角煮
 牛タン炭火焼き
 豚バラ炭火焼き
 豚角煮丼
 キャベツたっぷりの鶏照り焼き丼
 ぶっかけ風 冷やしカオピヤック(米粉で打ったラオスの麺をぶっかけうどん風に)
 特製ハヤシライス(自家製ドミグラスソースを使った限定メニュー)

 どれも市場で売っている素材を使ってのメニューだ。もちろん味はいい。自分自身が食って絶品! と叫ぶくらいだから間違いはない。これだけの料理を生み出せる自分が恐ろしい。
 いや。正直に書こう。ごくまれに駄目だこりゃ、というのもある。しかし高レベルの駄目だ、であると結局は自画自賛。男は歳をとると自慢しかしない生き物である。そしてその自慢は聞かされる他人にとっては、ほとんどの場合がつまらないものと相場が決まっている。だがそんなことを気にしていたら、男は恥ずかしくて歳などとっていられないのだ。わたしも男だ。しかも天才だ。意味はないが森田健作。
 とにかくこの毎日がインプロビゼーションの料理作りが正解だった。料理を作ることが仕事ではなく創作に変わったのである。客の舌に合わせるのではなく、自分が食いたい作りたいものを作る。そしてまさかこんなものまでと思うような料理を作って客を驚かせる。楽しくないわけがない。それもこれも日本にいたときに家事炊事をやっていた経験の賜物である。冷蔵庫にある余りもので、仕事から帰ってくる鋼鉄の妻の舌を満足させる料理を日々作り続けていたのだ。創作実験は嫌というほど積み重ねた。毎日メニューを変えることなぞどうということはない。いや。変えないと退屈で息が詰まる。厨房はアトリエに変わった。
 料理も増えたがメニューに載せる酒も増やした。ビアラオだけではなくワインも置くようにしたのである。ビアラオは確かにうまいが、ビエンチャン在住者はさすがにビールだけでは飽きがきているようだった。それに来るのは酒飲みばかりだ。酒の種類はあったほうがいい。さすがに日本酒は置けなかったが、ビールもタイのビールを置いたり、さらにジン・トニックも置いたりして酒飲みたちには大好評となった。ジン・トニックは初めてビエンチャンを訪れたときに飲み狂っていた酒。もちろんジン・トニ子の影響もあった。
 酒の種類は増えたがソフトドリンクに関しては相変わらずやる気なしだった。置いたり置かなかったり。遂には酒を飲めない客は持参してくるようになった。そんなだからコーヒーも出さないまま。コーヒーのないカフェ。たまに来る白人旅行者は呆れて首を傾げたが、知ったことかだ。
 しかし変わったのはメニューだけではなかった。変わったというよりは、新たな姿を現わしたというか。十一月から、カフェ・ビエンチャンで映画上映がはじまったのだ。

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