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第13回

 いざ開店してみると、カフェ・ビエンチャンの客層は九割が地元在住の日本人だったことは以前書いたか。最近は話したことを三秒も置かずに片端から忘れていくようになっているから、何を書いたかも忘れちまった。まあいいや。人生の先は残り少なくなった。時間の無駄だ。思い出すことよりも、これから何ができるかを考えよう。思い出に浸るのは誰かがやってくれ。おれは走る。
 ということで話はなんだ? そうだ客のことだ。
 客が日本人ばかりになったことは、当初、経営者として目指していたものと、だいぶかけ離れたものだった。地元に住むラオス人と日本人以外も含めた在住外国人が半々。そう思い、願っていたのである。ラオス人と日本人との架け橋。だから値段も極力抑えたのだ。
 だが所詮は“安くしてあげる”というボランティア的発想でしかなかったらしい。傲慢で見下した心根は見破られる。地元ラオス人が来ないのだ。安けりゃいいのか。そんなところだろう。もっとも値段を抑えたといっても、ラオス人経営の食堂に比べると、五割り増しから倍の値段のメニュー構成だから、何が地元ラオス人値段なのかということもある。月収一〇〇ドル前後。若い者なら月四,五〇ドルしか収入がないとなると、昼食に一回一ドル以上かけられないのは当たり前だ。
 さらにカフェ・ビエンチャンで出しているご飯物は、角煮丼や冷やし中華など、一般のラオス人には馴染みのないものばかりだった。彼らがイメージする日本料理というのは“寿司”と“刺身”。それだけなのである。
 料理の中身自体にも問題があった。角煮丼は、豚の角煮に青菜と温泉卵を乗せた丼なのだが、日本人には好評な温泉卵が、ラオス人にはまったくの不評だったのである。ラオス人はとろりと流れ出る生卵が大嫌いなのだ。気持ち悪いらしい。コオロギやバッタやカエルの卵を食うくせに、鶏の生卵を食えないというのは言語道断だが、それが習慣として刷り込まれた食文化というものなのだから、しょうがないと言えばしょうがない。関西人がたこ焼きと飯を一緒に食って何とも思わないのと同じことだ。
 ラオス人が嫌いなのはまだある。カレーだ。試行錯誤の末に、ようやく完成したカフェ・ビエンチャン特製カレーだったが、これまたラオス人が大嫌いな食い物だったのである。どうやらカレーの香辛料が合わないらしい。だからビエンチャン市内に数件あるインド人経営のカレー屋も、ラオス人客はほとんど姿を見ない。まったくラオス人の好き嫌いの激しさには困ったものである。タイ料理だろうと韓国料理だろうとタンザニア料理だろうとキリタンポだろうとモンジャ焼きだろうとバカ甘い九州醤油だろうと、なんでも口にしてしまう日本人を見習ってほしいというもんだ。というもんだが、そんなことはラオス人には知ったことじゃないだろう。
 ええと、何を書いているんだ。
 客のことだ。
 日本人の客のことだ。
「女の子のいる店って、ラオスにもあるんですよね」
 その二人組が来たのは、夜の十一時過ぎ。店を閉めようかという時間帯だった。
「ありますよ」
 おれは答えた。世界中、どんな小さな町に行っても女がお酌をしてくれて、ついでに枕も供にしてくれる店はある。ビエンチャンにもある。
「若い女の子でしょうかね」
 二人組の一人が言った。
「あるでしょうね」
 嫌な感じがした。二人組はどう見てもサラリーマン。上司と部下との関係だ。そしておれに何かと質問をしてくるのは、三十代と思える部下顔の男。横で言葉を発することなく頷きながら聞いているのは四十代か。
「どのくらいの値段でしょうかね」
「さあ」
 この時点でおれは理解した。服装と態度からして二人はバンコクに住む日本の会社員。休暇を取って女遊びに来たのだろう。
「またまたぁ。マスターだったら知ってるんじゃないですかぁ?」
 部下顔が言いやがった。
 ムカッとした。お前にマスターなんぞと呼んでほしくはないわい。おれは女衒でもないし、カフェ・ビエンチャンを歌舞伎町の風俗案内所にしたいわけでもない。
「知らないですよ」
「そうかなあ」
 そうなんだよ。
 と答えたら言いやがった。
「十歳くらいの女の子がいるとこ、知ってるんじゃないですかぁ。ねえ」
 上司顔の口元が心持ちほころんだように見えた。
「でも、まさか十歳なんかいませんよねぇ」
 そう言って部下顔が媚びた表情を浮かべながら上司顔を見る。
 上司が小さく笑った。
 小児買春に来やがった連中だった。しかも会社の論理をそのままに持ち込んで、上司のために部下が一生懸命に女の世話をする。十歳の少女を買う世話をする。これは会社の仕事なのか? 疑問も持たずにご奉仕を続ける部下。
 クズだ。日本の社会そのものだ。言っておく。これは特殊なことじゃない。この二人だけの問題でもない。こんな連中が東南アジアには、いや、世界にはウンザリするほどいるのだ。
 五十過ぎたから少しはわかる。日本の社会なんてのは、こんな連中が作っているのだ。プロジェクトXが、お笑いになるてなもんだ。何が世界に誇るべき日本の会社だ。こんな連中で成り立っているのが日本の会社なのだ。日本の組織というものなのだ。
 上司もクズだが、上司に言われりゃ何でもする部下もクズ。生活が掛かっているからという日本の四畳半的小説の哀愁なんぞはクソ食らえだからな。子どもを買いに来るのが哀愁で済まされるのか。それはサラリーマン生活の哀愁とは別のものだろう。
 ウンザリだった。
 だがこんな大人に育てられた子ども。こんな大人が作った社会に育てられた子どもたちが、ろくなものになるはずがない。
 そうなのだ。東南アジアをうろつくバック・パッカーと称する若造どもも、クズばかりなのだ。

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