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第59回

■店を引き継いでくれる人はいないか

 それほどの葛藤もなくビエンチャンを引き揚げてしまおうと決めはしたが、もしもうまくいくなら店は閉店ではなく誰かが引き継いでくれて、このまま"カフェ・ビエンチャン"という名前だけでも残ってくれないかというのが本音だった。閉店を聞いた客たちも、カフェ・ビエンチャンがなくなったら夜にどこに行っていいか困ってしまうと文句たらたらだ。おれがいなくなっても店が残れば多少なりとも役に立つ。何よりおれの気持ちが落ち着く。店はもうおれだけのものではなく客たちの大切な場にもなっていたのだ。
 うまい具合に七月末に半年ごとで行っている賃貸契約更改を迎えることになっていた。そのときに代替わりすれば、半年一括払いの家賃を含めて引継ぎがスムーズに行える。店の営業許可もそのまま使えるし、ビザに関しても、おれが代表となって登録した会社の従業員として申請すれば問題なく出してもらえるはずだ。
 もちろん什器は全て揃っている。二階は住居だから住むのに困ることはない。
 ビールの仕入れもビアラオと契約を交わしているので毎週きちんと配達してくれる。食材の仕入れや人気のあったメニューの作り方などに関しても、帰国を延ばして教えようではないか。幸いに牛タン炭火焼きという人気メニューもあるから、それを出せば経営的にはある程度は安心できるはずだ。料理に自分なりのこだわりと自信があるのなら、おれが作り上げたメニューを採用せずに独自のものに変えても一向にかまわない。
 店舗と厨房を除いて一階にはもう一つ、炭熾しとビアラオの収納にしか使っていない三〇平方メートルほどの冷房付きスペースが空いている。いつかそこにカウンターとわずかなソファを置いて小さなバー・スペースを作るか、あるいは卓球コーナーや壁を本で埋め尽くして読書三昧ができる図書飲み屋にでもしようかと考えていたのだが、単純に表の店舗を広げるのもいいかもしれない。とにかく好きなことができる空きスペースがあって、収入の増大も見込めるということだ。
 引継ぎ条件は二つ。
 カフェ・ビエンチャンの店名を残すこと。そして酒とビアラオを必ずメニューに入れること。
 悪くない。
 うん。
 ほんとうに悪くない。
 と考えたら、うってつけの人間がすぐそばにいたではないか。
 アラ主任である。
 まず料理好きなのがいい。"好き"は向上を生む。努力と工夫を支えるエネルギーとなる。
 その"好き"に加えて料理のセンスがある。いや。おれの好みのセンスに近い。微妙な味加減や盛り付け。しかもカフェ・ビエンチャンの主要メニューすべてを一緒に作っていたのでレシピもしっかりと覚え込んでいる。彼女が作れば、おれが作っていたのとほとんど変わりない料理ができるはず。客も違和感なく来続けてくれるだろう。
 ラオス語も問題ない。隣近所とは顔なじみにもなっている。
 さらに好都合なのは、アラ主任の本業である日本語教師の仕事が八月いっぱいで任期切れとなることだ。引き継ぐにはベスト・タイミングではないか。
 問題はアラ主任のやる気である。日本語教師の任期が切れたら日本に帰る。そう言っていたのだ。しかしカフェ・ビエンチャンでの助っ人業はとても楽しそうにやってくれていた。ならば可能性があるはず。
「店を引き継ぐ気、ない?」
 店仕舞いしてお疲れビールを飲みながら、おれは何気なく訊いてみた。
「う〜ん...。ちょっと考えたこともあったんですよね。カフェ・ビエンチャンが好きだし」
「よし! なら引き継いでくれ!」
「でも一人じゃできないですよ。知っている誰かと一緒にっていうなら考えられるけど」
「アラさんならできる!」
 おれは力強く応えた。
 しかし不安は隠せないようだった。
「女一人ですからね」
 言われてみるとわからないでもない。カフェ・ビエンチャンで店舗兼厨房係をこなしていたとはいえ、あくまでも助っ人業なのだ。それが一人ですべてを負って切り盛りするとなれば、それまでとは違ったプレッシャーがかかってあたり前だ。しかも住み慣れているとはいえ異国の地で若い女性一人で飲食店を営むのである。さまざまなアクシデントも起こるに違いない。
 しかしそこを突き抜けてこそヤマトナデシコであろう!
 と自分だけは帰ってしまう勝手なオヤジのおれ。だが人生はきっかけだ。きっかけだけで生きてきたおれは叫んだ。
「楽しいぞ、カフェ・ビエンチャンは!」
「わかってますよ」
「ならチャンスだ!」
「......う〜ん。でも、一人でやるのは...」
「誰か一緒にやる人はいないの!」
「いないわけじゃないんですけど...」
 なんだとお! おれは色めき立った。店存続に一筋の光!
「よし! その人と一緒にやればいい!」
 おれは脳天気に言い放った。自分の都合を相手に強要する。迷惑オヤジの最たる言動。しかしオヤジには明日がない。待っているのはボケか死か。だから今を懸命に生きよ。
「...ちょっと考えてみますね」
「よしっ! 乾杯だあ!」
 おれはグラスを掲げた。
 しかし結局アラ主任によるカフェ・ビエンチャン引継ぎはならなかった。彼女のやる気に条件がうまく重ならなかったのだ。
 おれは考えた。いっそ、この『カフェ・ビエンチャン営業中!』で引継ぎ者を募集してみようか。しかし募集しても来るかどうかはわからない。来たとしても実際に会ってみなければカフェ・ビエンチャンにふさわしい人かどうかはわからない。店の雰囲気に合った人間。偉そうだが大事なことだ。そうなるとなかなか見つからないのでは。まして大家との賃貸契約更改が迫っているのだ。時間がない。
 今にして思えば、半年間の賃貸料を払っておいて店は閉めたままにして、日本に帰国してゆっくりと引継いでくれる人間を探すという手もあったのだ。しかしなぜか考えが浮かばなかった。閉店ということに浮き足立っていたのかもしれない。それとも結局カフェ・ビエンチャンの役目は、そこまでだったということか。
 とにかく、アラ主任へのカフェ・ビエンチャン引継ぎはならなかった。
「すみません...」
 アラ主任がうなだれた。
「謝ることはないよ」
 残念だが仕方がない。タイミングが悪かったのだ。
 おれは頭を切り替えた。店を残すのは諦めよう。
 ならばどうするか。
 そうだ! 店の営業権利を売ってしまうのだ! ただじゃ起きんぜ! オヤジだぜ!
 おれは新たに営業権買い取りをしてくれる人間を探し始めた。
 ところでアラ主任はその後、帰国することなくビエンチャンの日本大使館に転職した。しかし今でも思っている。彼女が引き継いでくれたなら、もっと楽しく盛大なカフェ・ビエンチャンになっていただろうにと。

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