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第62回

■世の中の乗り物が常に遅れるとは限らない

「帰国する前に、蝦の調査を見に来ませんか? 招待しますよ」
 いつものように開店直後からしこたま飲み続けているバルタン伊藤が、口から泡を飛ばして言った。酔っているのか。しかし暴走族がかけているようなメタルフレーム鋭角眼鏡の奥から発せられる目線は、まだまだ飲むぞと強く鋭い。
「ほんと?」
 思わぬ申し出に声が上ずる。食指が動く。店の改装改築や開店後の日常的な切り盛りなどもあって、住みはじめてからビエンチャンをほとんど出たことがなかったのだ。文化人類学者の卵インディ嬢の助手として山奥の少数民族村に出かけたのと、店の常連"牛タン大王ヤマダ"&"ジントニ子"夫婦の車に乗ってラオス中部にある温泉が湧き出る村に出かけたくらいだ。あとは食材の買出しでタイのウドンタニやノンカイに行くだけのラオス生活である。はっきり言ってビエンチャン以外のラオスは、ほとんど知らない。典型的な都会っ子である。いや都会オヤジか。
 おれはあらためて訊いた。
「酔っぱらってる?」
 バルタン"暴走族"伊藤の目が光った。
「酔ってませんよ。ぜひ来てください」
「行く!」
 叫んだ。
 カフェ・ビエンチャンの客の九割以上は、学術調査に来ている学者か援助関係組織が派遣する専門技術者、あるいはNGOボランティア関係者である。旅行者はほとんどいない。昼間は営業していないし、街の中心部にあるとはいえ夜ともなればカフェ・ビエンチャン以外は店じまいして灯りもない仲通のため、観光客は見つけにくいのだろう。さらに夕方から夜にかけては夕陽を見るためのスポットであり安宿が集まっているメコン河沿いにどうしたって旅行者は行ってしまう。必然的に客は在住者ということになった。
 しかしそれはそれで良かったのだと考えている。気軽で楽しい気心の知れた連中が顔を見せるようになったし、気の合う常連が店にそろうことで性質の悪い一見の客が入り難い店になったからだ。
 もちろんこの性質の悪い客というのはおれにとって気が合うかどうかの問題である。店の経営者としてはお客様は神様だから選り好みしてはまずいのかもしれないが、カフェ・ビエンチャンをマクドナルドのような世界的チェーンにする気もなかったし、そもそも毎晩客と一緒に楽しく酔っぱらっていたいおれとしては相手は好きな人間であってほしい。おれの料理をおいしいと言ってくれる客ならばもっといい。良い料理人は良い客が育てると北大路魯山人もおっしゃっている。おれの場合は褒められたいだけだが、あなたに褒められたくてと高倉健も書いたことだし。とにかくカフェ・ビエンチャンはおれが仕切っているのだ。おれが掟だ。マイク・ハマーだ。文句はあるまい。
「ボクは先に現地に入ってますから」
バルタン"横浜銀蝿"伊藤がグラスを置いた。
「クロダさんは後から飛行機で来てください。空港まで運転手を迎えにやらせます」
 おれはうなずき、空になったバルタン"ブラックエンペラー"伊藤のグラスにビアラオを注いだ。
「おう!」
 バルタン伊藤は魚の研究者だ。ラオスへは淡水蝦の研究と養殖の可能性を調査するために来ている。頭の中が蝦みそでいっぱいなのではと思われるほど、考えていることは蝦だらけである。すべての話題が蝦に行き着く。しかしその話が面白い。博士だけに言ってることは専門的なことも多いのだが、もともと乱読乱学気味でこの世の知らないことすべてに興味津々のおれにとっては、とにかく面白い。そしてそれはバルタン伊藤博士に対してだけのことではなく、店に来る客の話すべてが面白くて仕方がないのだ。
 たとえばラオスの政治経済についての専門家がいる。道路作りの専門家もいる。農業指導者もいる。建築家もいれば文化人類学者や考古学者もいるし日本語の先生や美容師や柔道家だっている。バルタン伊藤のような魚博士もだ。そんな人たちから専門的なことやくだらないことも含めて毎夜のように話が聞けるのである。つまらない質問にも答えてくれてしまうのである。おれにとって店は最高の大学だった。日本にいたなら、こんな贅沢を味わえるはずがない。
 バルタン伊藤博士が蝦の調査研究をするために月の半ばを滞在に充てている場所は、世界遺産の街ルアンパバンから二時間ほど山の中に入った電気も通らない小さな村。観光客もウルルン滞在記の出演者も絶対に訪れないだろう村である。世界の果てを見てみたい。そんな絶好の機会を逃してなるものか。
 さて。ルアンパバン行きの飛行機に乗る当日の朝である。おれは空港に行く前にカメダさんの店ブルースカイ・カフェに寄って朝食をとることにした。飛行機の出発は十時二十分。飛行時間は四十分ほどの短い旅だ。ルアンパバンの空港には伊藤博士の調査チームの運転手が迎えに来てくれているはず。あとは車に乗って走るだけ。その前の腹ごしらえである。
「じゃあ、そろそろ行きますよ」
 朝食のサンドイッチを食い終えたおれは立ち上がろうとした。
 しかしカメダさんが何をバカなという顔をする。
「まだ出発まで一時間以上あるじゃないですか」
「でもチェック・インしなきゃ」
「ここはラオスですよ。それに乗るのはラオス航空でしょ? ラオスの乗り物が定刻どおりに出発するはずがないですって。必ず遅れます。空港まではトゥクトゥクで十五分。大丈夫ですよ。出発の十分前に着いたって乗れますよ。さ、コーヒーもう一杯飲みましょう!」
 そうなのだ。バスだろうと船だろうと、ラオスの公共交通機関が定刻どおり出発するはずがないのだ。早くても三十分遅れで出発というのが当たり前なのである。もっとも路線バスであっても定刻通りに運行している日本の公共交通機関のほうが世界的に見れば異常なのだが。
「それもそうですよね」
 おれはコーヒーをもう一杯飲むことにした。しかしそれが間違いだった。ラオスの脳天気さをおれもカメダさんも、すっかり見誤っていたのである。空港に着いたのは九時五十分少し前。出発まで三十分以上ある。余裕のチェック・インのはずだった。いつものラオスなら...。
「もう締め切ったよ」
 ラオス航空カウンターの兄ちゃんが手渡した航空券を返してくる。
「ちょっと待て。どういうことよ」
「もう出発だよ」
「出発? 十時二十分発じゃないか! 今はまだ十時になってないだろ!」
 おれは壁にかかった時計を指差した。
「だってもう飛行機は動いてるんだもん」
 兄ちゃんの目線の先を見ると、窓の向こうに小さなプロペラ機がプロペラを思い切り回転させて滑走路に出て行くところが目に入ってきた。
「ちょっと待て! 出発は十時二十分て書いてあるだろ!」
 おれはチケットを指差した。
 しかし兄ちゃんは惚けた顔をして言いやがったのだ。
「チェック・インは出発の一時間前って書いてあるじゃないですか」
 確かにそうだが...。
でも予定された出発時刻よりも早く飛び立つのを認める航空会社ってアリなのか? しかもここは乗り物はいつでも遅れるラオスだぞ!
「次の便に乗り換えればいいじゃないですか。シェンクアン経由便だから時間は倍以上かかるけど」
 おれはがっくりと肩を落とした。
 カメダさんに電話した。
「ええええっ! そんなことってあるんですか! いやあ、ラオスは奥が深いですよ!」
 住み始めて三年。帰国間際になって、まだまラオスについては何もわかっちゃいない"ひよっ子"のおれなのだと理解した瞬間であった。

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