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第56回

■臨時開店特別編の二〇〇九年から話はまたまた二〇〇七年に戻って
 
 日に何度かやってくる激しい通り雨が家々の屋根をたたくと、頭のいかれたハードロック・バンドのドラムが繰り出すような重たい響きが街中を震わせる。一瞬にして水浸し。しかしその雨が通り過ぎれば、あっという間に水は引き、濡れていた街は雲間に現れた太陽に焼かれてからりと乾きあがる。雨季の六月。街は雨水で生き返った木々の緑の色に染まって、カフェ・ビエンチャンはますます客足を伸ばしていた。
 暑季を抜けたせいもあるのだろう。大地を洗う雨が気持ちよく感じられる。降る雨の強さによっては店の天井中央部分から少なくない量の雨が漏ってくるのが困りものだが、そんなことにはすっかり慣れてしまっているラオス・ベテランの客たちが、一向に気にする風もなく飲み食いしてくれているのが嬉しい。
 裸電球の柔らかな光に包まれた店内。ほんの少し燻んできた白い壁。壁際に置かれた大きな飾り台の上には本が並び、ヨドバシで買ってきてタラート・サオの修理屋で電圧を変えた安物のCDプレーヤーからは、その日の気分の音楽が流れ出している。ジャック・ジョンソンの夜もあればEGO=WRAPPINの夜や高橋真理子やNUJABESやダイアストレイツやPort Of Notesの夜もある。
52yamori.JPG 入り口から正面にあるフラットな壁は、月一回の映画上映会のためのスクリーンだ。棲みついた三匹の小さなヤモリがその壁を忙しく走る。
 雨が漏ってくる天井では二つの大型ファンが回って、暑さと牛タン焼きの煙に微かに曇った空気をゆっくりとかきまわしている。三人掛けのテーブルが二台。詰めると七人は座れるテーブルが一台あるだけの狭い店だが、なぜか窮屈さは感じない。
 不思議なのは、来る客のほとんどが仕事の話を店ではしないことだ。ただひたすらに酒や料理を楽しみ、馬鹿な話に笑い転げ、好きな音楽に揺れているだけ。だから店の空気が引きずってきた日常でぎすぎすと軋むことがない。逆に日常を引きずった会話をする客は、どうにも居心地が悪くなって早々に帰っていくことになる。
 店の色はセピア。
 ありきたりだが、たまらなく心地よい場所。
 カフェ・ビエンチャンはいつの間にか理想の店に仕上がっていた。そのほとんどは、来てくれた客たちがつくりあげたもの。そして自分で言うのもおかしいが、おれ自身がこの店のいちばんのファンだった。
 売り上げは毎月右肩上がりで上昇していた。帰国後にPCのハードディスクが完璧に壊れてしまい、エクセルでまとめていた日別月別の収支表が取り出せなくなってしまったのでここに公開できないのが残念だが、五月は家賃を含め全ての経費を差し引いた純利益が五〇〇ドルを超えるまでになっていた。日本の物価にあてはめると三〇万円くらいになるだろうか。最終的には七〇〇ドルを超えるまでいったのだが、店の規模を考えたら悪くはないというより上々の成績だろう。しかも夜だけの営業である。開店からしばらく赤字になるぎりぎりのラインでふらふらしていたことが嘘のようだ。ようやく店が認知されたのかもしれない。そう思った。
 客足が目に見えて伸びはじめたのは、営業許可証問題が片付いて本格的に営業を再開した前年二〇〇六年の十月からだ。それまでの営業で常連たちが少しずつ広めてくれたカフェ・ビエンチャンの料理は美味しいという評価が、かたちとなって現れたのだろう。
 しかしもっとも大きかったのは、店をやっていくうえでのおれ自身の気持ちの変化だ。それまでは来るお客は何を求めているのか。あるいはどうすれば儲かるかばかりを考えていたのだが、ある日、ふと気づいてしまったのだ。
 何のためにビエンチャンに酒場をつくったのか。それはまず面倒な世の中のことなど打っちゃって自分が楽しむためではなかったのか。客のことや営業ばかりを考えて自分が楽しめないなら、店をつくった意味などないではないか。まずは自分が楽しむこと。例えお客が来なくても、自分が気持ちよく酔っぱらえる夜があればそれでいい。肉体的にならまだしも精神的に疲れることなどまっぴらだ。だからお客は二の次。自分が美味しいと思い食いたいものだけを作る。自分の好きな音楽をかけて好きな映画を上映し、好きな時間に店を開けて好きなときに休む。
 そう考えを変えたところ、メニューや客の入りに一喜一憂していたのが嘘のようになくなって、料理を作って店を開けるのがとても楽しくなってきたのだ。
 考えてみると映画館をやっていたときも、小さいながら雑誌の編集をやっていたときもそうだった。客の入りなど考えず自分がこれは面白いと思って選んだ映画を上映したときや、読者のことなどお構いなく心底楽しんで誌面をつくっていたときほど、お客さんや読者に支持されたものだ。だから映画館でも雑誌でも酒場でも、つくり手が楽しんでいることが、まずいちばんに大事なことなのだと思い直した。面白がっていることが大切なのだと。するとカフェ・ビエンチャンがいちばん好きな客は当然おれになった。
 好きな店はもっと好きになりたい。ならばもっと料理が美味しくて楽しい店にしよう。料理や酒以外でも、好きなことなら何でも注ぎ込んでしまえ。おれ自身が楽しめるように。ここはおれの遊園地だから。
 するとどうだろう。お客さんがどんどん増えはじめたのだ。
 楽しいのはいいが、忙しいのも考えもんだぜ。おれは浮かれた。カフェ・ビエンチャンはさらに面白さを増しそうだった。
 そして暑い夜だった。
 おれはワッタイ空港にいた。
 降り口のドアから見慣れた顔が現れた。
「久しぶりっ!」
 鋼鉄の妻がやって来た。

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