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第11回

■ラオス人化についての文化人類学的および生理学的考察と結果

 ラオスとは不思議な国だ。どれだけ店が忙しくても、どれだけ体が疲れても、気持ちだけは疲れるということがないのだ。思ったように客が入らなくても、考えていた仕事が片付かなくても、一日が終わってみれば、まあこんなものかと思ってぐっすりと眠りに入り込んでしまえるのだ。
 後悔という感情がわいてこない。
 ああ、あれをやっておけばよかった。あそこで、違った道を選んでいたなら。
 そんなことは一切考えない。あるのは今現在だけ。その今現在が楽しければそれでいい。ただただそれだけ。
 それはまたラオス人の生き方でもあって、隣近所を含めて知り合った人のほとんどは、人生に目的なんぞこれっぽっちも持っていないスーダラぶりだ。仕事ぶりもデタラメそのもの。約束は守らないというよりも、すぐに忘れる。汗して働くのは大嫌いだし、いつも休むことを考えている。ミスをしても謝らないし、そもそもどうして謝らねばならないのかがわからない。できもしないことを平気で任せろと請合って、いざできないとなるとすぐに逃げる。面倒くさいことは大嫌いで、楽をすることばかり考える。日本の社会規範にどっぷりと浸かった身からすると、許しがたきデタラメとグータラぶりである。
 しかしそれが奇妙に気持ちいいと思えてしまうのは、自身にラオス的メンタリティーがあったからなのか。
 人生に目的も意味もありはしない。意味や目的などは、西欧近代が考えだした戯れ言よ。禅師・一休宗純も詠っているではないか。

 世の中は食うてはこしてねて起きて
     さてそのあとは死ぬるばかりよ

 ならば楽しめ。遊べ。偉大なる歴史学者ホイジンガも定義している。
“人間とは遊ぶ動物=ホモ・ルーデンスである。遊びの精神を持たない文化は、文化の名に値しない”
 と。
 その点から言うなら、ラオス人にとって生きることは遊ぶこと、ただそれだけである。もしもゴータマ・シッダールタがラオス人だったら、彼は生まれ出てきたこの世を“苦”などと解釈しなかったろう。そんなラオス人たちに仏教徒が多いというのはどうにも納得できないところだが、小坊主どもが暇さえあれば小娘たちをナンパしているのを見れば、やっぱりラオス人はラオス人ということなのか。つまるところ彼らにとって並べてこの世はパラダイス。遊べや遊べ、やれ遊べ。てなもんだ。
 というわけで、長い間、おれの精神の奥底に澱のように溜まっていた悪しき目的至上主義みたいなもんが、泡のように消えていくのがわかった。心は少しずつラオス人化し始めていた。
 まあ、なるようになるさ。
 いや。なるようにしかならないさ。人生なんて。
 そもそも楽しみに来たんじゃないか。頑張るなんてのは、若造に任せておけばいい。おれ、五十だもん。
 カフェ・ビエンチャンもいいかげんにやることに決めた。
 そう決めたら、それまでの“やらねばならぬ”モードがいっぺんに“ボチボチいきましょ”モードに変わってしまった。取りあえずは年末の日本帰国までは続けるが、年明けからは、客足の伸びないランチ・タイムは打ち切ってしまおう。夜しか営業しない、本格居酒屋カフェに変身するのだ。そうすれば昼の時間を自由に使えるようになるぶん、メニューの開発もすすむというものだろう。
 心機一転。“美味い!”と評判の立ちはじめたカフェ・ビエンチャンの料理にいっそうの磨きをかけるべく、連日連夜、厨房で包丁を振るった。居酒屋料理の真髄を見せてやろうじゃないか。ついでにイタリア料理や中華料理や韓国料理だって出して見せようじゃないか。そう。忘れていたが、おれは台所の天才なのだ。
 心は驕り昂ぶった。
 そんなときだった。日本から鋼鉄の妻が視察にいらっしゃったのは。
「店の味を点検しに来た」
 まるでフランチャイズ店の味をチェックしに来た、大手居酒屋チェーン本部検査員である。
 だがおれは動じない。家では掃除洗濯はもちろん、三度の食事を十年以上も担当し料理を作り続けているのだ。しかもその料理をうまいうまいと言わせていた実績があるのだ。カフェ・ビエンチャンの料理が妻の口に合わないはずがない。
「どうよ」
 店のテーブルに座って冷やし焼きナスを口にする妻を見ながら、おれは胸を張った。
 チェーン本部の妻が吐き捨てた。
「塩辛い! あたしを高血圧にさせて殺す気なわけ!」
 いつものように美味い! と叫び声をあげると思っていたおれは、目元を険しくして反論した。
「塩辛いだと? そんなはずあるか!」
 ただでさえ薄味好きの男である。おれは冷やし焼きナスをつまんで口に入れた。
 いつもの味である。
「どこが塩辛いんだ! ちょうどいいじゃないか!」
 しかし鋼鉄の妻は引かなかった。
「いいや、塩辛い!」
 そう言うと、豚の紅茶煮にも箸を付けた。
「これも塩辛い! だめだこんなの! 完全に味がラオス化してる!」
 まさかと思った。こと料理の味付けに関しては、妻は文句を言ったことがないのだ。おれの自信が総崩れになった。
「本当に塩辛いか?」
「塩を食べてるみたいだって」
 言われて紅茶煮を口にしてみると、たしかに塩辛い気がしないでもない。だがお客はこの味付けで、美味い美味いと言ってくれているのだ。
「ラオス人の味覚になったんだ。あーあ。こんな塩辛いもの作って」
 鋼鉄の妻の言葉は容赦なかった。どうやらおれの舌はラオス料理に慣れてしまっていたらしい。味付けがどうしようもなく濃くなっていたのである。在住の日本人もそのラオス流の濃い味に慣れているものだから、塩辛いとは感じないということらしい。
「だめ。こんな味を出したら」
 本部のお達しである。
 がっくりと肩が落ちた。気持ちだけでなく、舌もラオス人化していたおれ。ラオスはどこまでも奥が深いのだった。

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