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第16回

■おそらく人生はジョン・アーヴィングの小説よりもずっとシュールだ

 カフェ・ビエンチャンを作るにあたり、借りた物件の改装と同時進行の形で行っていたのが、外国人がラオスで商売するために必要な会社の設立と登記だった。設立にあたっては、手伝ってくれていたチャンタブンさんとブンミーさんが加わっての共同出資の形をとった。もちろん実際にお金は動いてはいない。すべてこちら持ち。外国人がラオスで商売をする際には、ラオス人と共同という形を取ったほうが、便宜上、都合がいいからだ。
 登記に関しては、書類書きや役所への提出はチャンタブンさんとブンミーさんがやってくれていた。これらのことに関しては、登記に動いてもらうお礼と、その後の役所関係との折衝やオープン後にさまざまな手助けをしてもらうかわりに、カフェ・ビエンチャンがオープンし利益が出るようになったら、その利益の数パーセントを支払うということにしていた。非常勤の役員報酬のようなものである。二人がやってくれていた手間賃として考えると当然のことだった。それにオープン当初は利益が出るとも考えてはいなかったし、出たとしても店の規模から考えて微々たるものでしかないと予想していた。そんな微々たる報酬で二人が気持ちよく手伝いをしてくれるのなら、願ってもないことだろう。ましてこちらはラオス語をほとんどまともにしゃべることができない状態。それでなくてもコネがモノを言うラオス社会だ。しかも複雑煩瑣な社会主義官僚機構である。仕事柄、その方面に通じている二人の力がなければ、とても会社登記や店の営業許可など取ることができないと思われた。
 しかし思わぬ難題が立ち上がった。
 会社設立の資本金である。
 ビエンチャンで飲食店を経営する外国人はラオス人と結婚していることが多く、ラオス人である夫や妻のどちらかの名義で営業許可を取っているのがほとんどだ。そうすればいちいち外国人との共同出資の形をとった会社を設立する必要もなく、許可も簡単に取れるからだ。またラオス人と結婚していない場合でも、知り合いのラオス人名義で許可を取ってもらい、その従業員ということで店を営業していることもある。どちらにしても、許可の名義はラオス人だ。
 しかしチャンタブンさんとブンミーさんは、店の営業許可に関する名義はあくまでもおれの名義にしてやろうと考えてくれていた。そのための会社設立である。さらに外国人投資を受け入れる許認可局を通しての設立のため、設立後二年間は無税になるというメリットもあった。ビジネスビザも安く簡単に発行される。すべては二人の善意からだった。
 二〇〇五年九月。会社設立の登記は終了した。表彰状のような仰々しい登記書が発行され、おれのもとに手渡された。登記書にはおれの名前。登記上の肩書きは“外国人投資家”である。まるで国際的コングロマリットで腕を振るう辣腕経営者かアラブの富豪みたいだが、実態は小さな飲食店のオヤジだというのが気恥ずかしい。
 しかしこれで会社設立の関門は突破した。そう思っていたのが甘かった。発行する登記書の裏面に書かれてあった文書である。

“店の営業開始から三ヵ月以内に地域の観光局、財務局、税務署それぞれの営業許可を受けなければならない。そのためには当会社の資本金一〇〇〇〇ドルの入っている会社名義の銀行預金が必要とされる”

 書類検査と店の検査が必要だった。それはいい。問題は資本金一〇〇〇〇ドルという部分だった。日本円にして約一二〇万円。その額のお金が会社名義の通帳に入っていることを証明する、残高証明書が必要だというのだ。日本で株式会社を作るには一円の資本金があれば可能だが、ラオスではそうはいかない。しかも外国人が設立する会社だ。このくらいの資本金はあって当然とされていた。
 だがそんな金はなかった。
 そもそもできるだけ安く作るということで、店舗の手作りに挑んだのだ。それだけの資金があれば、一年がかりの手作りなどせずにさっさと大工を雇って作ってしまっただろう。
 ここにきてパートナーだったOのトッツァンが言った言葉が思い出された。
“店の規模に対して資本金額が大きすぎるんじゃないの?”
 トッツァンはするどい部分を突いていたのである。だがおれはトッツァンが辞めると言い出していたことで、真面目に聞く耳を持っていなかったのだ。
 常に熱く、しかし冷静で謙虚であれ。
 ビル・ゲイツの言葉が身にしみた。しょせんおれは世界的企業の経営者にはなれないということだ。なる気も、なれる可能性も皆無なのだが。
「これはあくまでも見せ金だから、残高証明を作ってしまえば、すぐにお金を下ろしてしまえばいいんだよ」
 チャンタブンさんが言った。日本人は金持ちだから一二〇万円くらいの金は、すぐにでも用意できると思っているフシがありありだった。しかし日本人にも貧乏人はいる。おれだ。
 というよりここ五年ほどの間に日本人勤労者の三分の一近くは、貧困層に転落してしまっている事実がある。二十代から映画の仕事などという斜陽産業に従事していたおかげでもともと貧困層にいたおれにとっては“そうかい”てなもんだが、日本人がすべて中流だった時代はとっくに終わりを告げているのだ。日本という国自体だって借金まみれで、その財政赤字の大きさは、たとえばEUに加盟したいと言っても拒否されるほどの規模なのだという。旧西ヨーロッパの最貧国と言われたポルトガルやデタラメ財政の象徴とも言われたイタリアよりヒドイってんだから、何をかいわんやである。こうなると日本人イコール金持ちという世界に広まった誤ったイメージを覆すことこそが、ダックスフント顔アベちゃんがするべき最優先課題ではあるまいか。女房とお手々つないでニヤけている場合ではない。

 ぼくらはみんな貧乏です! 手のひらにお金を! 世界の皆さん、バクシーシ!

「そんな大金はないよ」
 おれはきっぱりと言った。
「借りられないの。どうせすぐに下ろせるんだから」
「そうは言ってもなあ」
 そんな議論が、二〇〇五年の末からずっと続いていた。ほんとうなら十一月中には残高証明書を含めた書類を提出し、すべての部局からの営業許可を取っていなければならなかった。しかし取っていなくても書類申請中という名目であれば営業できてしまうところが、ラオスのいい加減なところなのだが、それも年が明けて二〇〇六年四月の段階で限界に来つつあった。
「どうしようか」
「お金を用意するほかない。残高証明書さえあれば、許可証はすぐに発行されるんだから」
 しかし一二〇万円と言うのは現在自分が動かせるお金を加えても簡単ではない。まして鋼鉄の妻が難病指定を受けたのである。入院費もあった。これからいつ何時、また病が悪化するかもしれない。
 無理をするべきときではない。
 ここまでか。
 そう考えていたときに、またまた妻から電話があった。病の悪化かと思ったが、違っていたのは幸いだった。しかしその内容は、思ってもいなかったことだった。
「アパートが古くて取り壊しになるって通知が来た。十月までに出てってくれって」
 札幌で住んでいるアパートが老朽化のため大家が取り壊すことにしたのだという。
 腰の力が抜けて思わず笑ってしまった。
 人生はシュールだ。ジョン・アーヴィングの小説よりもずっと。
 おれはビエンチャンの空を見上げた。

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