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第2回

■派手な宣伝が効果大とは言えないが、地道ばかりがいいとも限らない

二〇〇五年八月二十七日土曜日。ビエンチャン時間十七・〇〇時にカフェ・ビエンチャンは店を開けた。
 近所のインターネット・カフェにA4紙にコピーしたチラシを貼ってもらった以外は、事前の宣伝は一切していなかった。そのため客の入りに関しては、まったく期待はしていなかった。開店前のカフェ・ビエンチャンに集まってきていた“貧日会”の面々にしても、それぞれの仕事で地方に出かけていたり、また日本に帰国してしまった人間も多く、お付き合い来店は期待できる状況にないということもあった。
 しかしそれこそが勝負のしどころというものだ。カフェ・ビエンチャンの味。つまり宣伝なしの口コミだけでどれだけ客を集められるか。この台所の天才が作り出す変幻自在、妙味華麗なる味を口にすることで、どれだけの客を呼び込めるものなのか。包丁一本さらしに巻いて、はるか海越え山越えて、着いた都でふるうのは、汗と涙でモノにした親方秘伝のあの一皿……。
 まあ親方なんていやしないけど、とにかく最初はごく少人数でも、味を知ってもらうことでカフェ・ビエンチャンの名前を徐々に広めていこうというのがおれの立てた作戦だった。
 しかしごく少人数とはいっても限度というものがある。午後五時に店を開けてから三時間。一人も客が来ないのである。
「来ないですね」
 五時前から張り切りまくっていたクロコ先生がため息を吐いた。籐で編んだお盆を片時も離さず、スターウェートレスとして常に臨戦態勢に入っているのはいいのだが、いかんせん客が来ないときてはお盆も単なる宴会用の踊る花笠代わりでしかない。
「開店のことは誰にも言ってないんだから、まあこんなもんだろ」
 一応カラ笑いを付け加えて強がってはみたが、正直少々あせっていた。宣伝をしていないから客は来ないと言いつつも、それでもどこかから噂を聞きつけて覗きにやってくるとか、あるいは店の前を通る旅行者がふと気づいて入ってくるとか、すくなくともそのくらいはあるだろうと考えていたのだ。とにかくビエンチャンは狭い街だ。しかも娯楽が極端に少ない街なのである。新しいレストランがオープンするともなれば、あっという間にその情報は津々浦々まで走りまわっているはずなのだ。
 それがゼロである。
 何かの間違いなのか。
「ごはん、どうしましょう」
 客待ちに疲れ気味の気配を漂わせた博士が言った。炊飯ジャーに炊いた四合のご飯が、今か今かと出番を待っている。しかしこのままだとそのごはんも無駄になるというものだ。
「うん。もうすこししたら店閉めて、みんなで食事タイムにしようか」
 おれは極力明るく言った。どう考えても客は来そうになかった。ならばさっさとやめて明日また出直そう。
 そういえば、と、おれは思い出した。映画館をオープンさせた日。それまで一ヵ月近くかけて地元のテレビ局やラジオ、新聞、タウン誌などありとあらゆる媒体を使って、やりすぎだといわれるほどに新しい名画座の誕生を宣伝しまくったにもかかわらず、いざ初日を迎えてみたら予想の三分の一しか客が来なかったことを。一緒に映画館を始めた仲間はおれを含めてこと映画の宣伝に関してはプロ中のプロだと自負し、一応その業界では認められていた存在だった。だからこそ自信があった。これだけ宣伝したのだから、すくなくとも予想の十パーセント前後の誤差くらいで客は集まるだろう。いや。それ以上を期待してもおかしくはない。
 ところが結果は散々である。
 宣伝を過信するなかれ。
 地道こそ商売の基本なり。
 地道と程遠い生き方しかしてこなかったくせに、適当なこと言うんじゃねえよなのだが、平気でそういうことを口にできないようじゃビエンチャンなんかにカフェなんぞ作れるかって。そもそも人間なんて、朝起きたときと夜寝るときの考えが違っていて当たり前だろう。それを無理やりどちらかに合わせ続けようとするから苦しくなるのだ。そのときそのときに思っていることが正しいこと。世間はそれを適当と呼ぶが、悪いが適当って楽だし。だからおれ。適当に生きます。
 と、まあこんなふうに厚かましくなれるってことが、オヤジになるってことの醍醐味だ。若造も悔しかったら早くオヤジになりな。好き放題言いたい放題で、楽しいぜ。
 ということでカフェ・ビエンチャン開店は、この“地道”をテーマに掲げたわけだが、いくら地道でもさすがに客がゼロともなると頬が引き攣るのはオーナーとして仕方があるまい。初日なのだ。嘘でも十人くらいは客が来てほしいじゃないか。
「よし。今日は店じまい。飯食って飲もう!」
 オーナーとしては空元気の言葉を発する。スタッフにいらぬ動揺を与えてはならないのがつらいところ。というより、空元気でも出さなけりゃやってられたない。
 ところがだ。クロコ先生はそうではなかった。
「だめですって。無理にでもお客さん呼びましょうよ。初日ですよ」
「でもなあ」
「なに言ってるんですか。こうなったら知り合いに電話します。いいですよね」
 と言うが早いか、知り合いのラオス人に電話して無理やり呼びつけてしまったのである。
「カフェ・ビエンチャンがオープンしましたよ。これから来てくださいね。すぐですよ。さっさと来るんですよ…」
 十分後には二人のラオス人青年が、なんだかわけがわからないといった顔で、カフェ・ビエンチャンのテーブルについていた。
「はーい。角煮とぶっかけ入りましたあ!」
 クロコ先生の手にしたお盆が舞った。
 なんだか意地になって地道を通そうとしていた自分がバカバカしくなってきた。そう。適当にやりゃよかったのだ。
 カフェ・ビエンチャン開店初日。客二人。豚角煮一人前。冷やしぶっかけカオピヤック(=うどん)二人前。ピンク・グレープフルーツ・ジュース二杯。ライムビア一杯。計六六〇〇〇キープの売り上げ。
 前途はまったく見えなかった。
 

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