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第40回

■厨房でサンバを踊る

 ピーマイと呼ばれるラオス正月が近づいていた。四月半ばのその時期は一年で最も暑いとされている。ところが過去二年間に経験した暑さは意外にそれほどでもなく、四〇度前後の気温が連日続くと聞いていたにもかかわらず上がっても三二,三度の気温がせいぜいで、これなら埼玉県熊谷市のほうがよほど熱帯東南アジアではあるまいかと思えたものだった。実際のところ、ここ十数年は東京や埼玉の八月の平均気温はクアラルンプールより高いそうだから、ビエンチャンの気温が熊谷市より低いとしても不思議でもなんでもないのだろう。
 そう思っていた。しかし二〇〇七年は違った。三月半ばに開催した定例の“土曜キネマ館”で大好きな植木等主演による「ニッポン無責任時代」を上映したあたりから気温がぐんぐんと上昇しはじめ、いつの間にか日中の気温三五、六度が常態となり、高いときには四〇度近くまでいくというのが当たり前となってしまったのだ。
 ちなみに植木等さんが亡くなったのは、カフェ・ビエンチャンで「ニッポン無責任時代」を上映して一週間後のことだった。劇中、唄い踊りながら明るく無責任に世の中を渡り歩く植木等さん演じる主人公・平均(たいらひとし)の楽しい姿が、同じく笑えるほどに無責任に人生を送っているように見える隣近所のラオス人と重なって大爆笑の上映会だったが、まさか一週間後に悲報を聞くことになろうとは思ってもいなかった人生の不思議。それにしてもビエンチャンの夕空に“スーダラ節”を響き渡らせることができた感動をなんと表現したらいいだろう。それだけでもビエンチャンに来た意味があろうというものだ。そしてスクリーンを見つめながら、あらためて思ったのだ。通信簿に協調性なしと書かれ続けた小学生時代のおれの師(グル)、植木等さん。遠く四十年の時を過ぎても、あなたはやっぱり師でありました。
 では今日も唄わせていただきます!
  
♪人生で大事なことは
    タイミングにC調に無責任!
    とかくこの世は無責任
   こつこつやる奴ァごくろうさん
     ハイごくろうさん!♪

 え~、唄い終わったところで暑い暑い二〇〇七年ビエンチャンの春。店は順調に客足を伸ばしていた。営業が再開した十一月から毎月売り上げは伸びてはいたが、アラ主任が店を手伝ってくれるようになってから客足も売り上げも日増しに伸び、週売り上げの記録を更新し続けるようになっていた。
「これなら地域一番店ももうすぐだな。いや。ラオスの焼肉ゲイツと呼ばれる日も間近かだぜ」
 北海道の田舎町に横たわる寂れた商店街でエゾシカ肉のカレーを出したところ、周辺2km地域で思いもかけずに人気店となってしまった食堂のオヤジがテングになって吐きそうな言葉をおれもオヤジだから口にした。
 聞いたアラ主任はドミグラスソース用のタマネギを炒める手を止めることもなく、鼻先でおれの言葉をあしらう。
「ああ、そうですかっ」
 しかし頭にのっているおれは聞く耳など持つもんかい。
「そうなんだよ! まあいいや。おれはちょっと出てくるから、誰か来たらパチンコ屋にいるって言っておいてくれ」
 と言いつつパチンコ屋などラオスにあるはずもなく行った先は近所のインターネット屋なのだが、こういう会話が厨房でできることこそが客足の伸びに繋がったのだと思うのだ。つまりどういうことかというと、厨房の雰囲気が俄然楽しくなったのである。
 もちろん料理作りは大好きだから一人黙々と包丁や鍋を振りまわしていても苦にはならない。苦にはならないが発散はできない。気分だって弾けない。あたりまえだ。たった一人でサンバを踊りながら奇声をあげてキャベツを千切りにできるコックなど、ブラジルかキューバか北千住くらいにしかいないだろう。しかもおれは日本人である。一人で厨房に立てば自然と高倉健になってしまう日本人である。必然的に厨房は演歌となる。
 だがおれは演歌よりラテンが好きなのだ。だから厨房にいても白衣や作務衣などは着用せず、常にビエンチャン・マルキュー定番ファッションである短パン・Tシャツ姿に身を固めていたのである。まあ、これは冷房のない厨房が異常に暑いという理由があったのだが。
 とにかく厨房では弾けたい。弾けて浮かれて料理を作りたい。そこにアラ主任である。
「クレソンの山盛りサラダが入りました!」
「なんだとぉ! またサラダか!」
「はいなぁっ! 女子です!」
 店にやってくる女性客は必ずと言っていいほどサラダを注文する。とにかくサラダである。何はともあれサラダである。呆れるほどにサラダである。ラオス料理は茄子やインゲンなど野菜を使った料理は多いが、そのどれもが煮込み料理で、ふんだんに使う生のハーブ類も麺類に入れたり生春巻きに使ったりするくらいだ。フレンチやイタリアンのレストラン以外の食堂レストランで生野菜を食べることはほとんどない。だから飢えているのだろう。しかしそれはなにもビエンチャン在住婦女子のことだけではなく、日本人婦女子全体にあてはまる特徴ではあるまいか。酒を飲みに行っても必ずサラダを注文するのである。草を食いながら酒である。だからカフェ・ビエンチャンでも草である。“今日は草でいく?”というのは“マリファナやる?”という意味にとられがちだが、カフェ・ビエンチャンではサラダである。そこでおれはサラダの注文が入ると、厨房で大声をあげるのだ。
「どうしてこうも女子どもは草を食いたがるのだ! そんなに山羊さんになりたいのかあっ! そうだ! 今度からメニューにはサラダと書かずに“草”と書いてやる!」
「ははははっ。いいから草、はやく作ってくださいよ!」
「ようし! ゲロを吐くくらい山盛りにしてやる! 口惜しかったら全部食ってみやがれだ!」
 といった会話が飛び交うようになったのだ。そうなると厨房は強い。何が強いのか書いていても意味がわからないが、そのような自由な会話が丁々発止と楽しく飛び交うようになった厨房では料理のアイデアが次々と浮かぶから強いのだとこじつける。しかも会話のリズムに乗ったラテン系オヤジの仕事の手は必然的に早くなるのは言うまでもない。石川さゆりからブエナビスタ・ソシアルクラブへの変身。それまでは“うまい! 安い! 遅い!”を標語にしていたのが、待たせることなく料理を出せるようになったのである。えらい!
 また注文を忘れる失態もなくなった。恥ずかしながら一人でやっていたときはそれが結構多かったのだ。しかしカフェ・ビエンチャンに来る客はみな優しく、というよりもラオス人のやっている食堂では日常茶飯事のことなので、みなそんなことにはカリカリしなくなっていたのかもしれない。誰も嫌な顔をする客がいないのが有り難かったのだが、それが一挙になくなった。
 それだけではない。アラ主任のおかげで清算間違いがほとんどなくなったのだ。客が立て込むと伝票のつけ忘れなどでよく勘定を安いほうに間違えては、翌朝の帳簿付けのときに気づいてガックリと肩を落とすことが多かったのだ。それもすっかりとなくなってしまった。
 それにしても勘定間違いを常に安いほうにしてしまうというのは、金に縁のないおれの人生の象徴なのであろうか。複雑である。
 そんなこんなでアラ主任の登場は、カフェ・ビエンチャンにさらなる輝きをもたらしたばかりか、おれにとっても一日の励みとなってくれる一大事であったのだ。
 そしてそんな暑い暑い夜にいつものようにやって来るのが、“脳がエビ味噌で出来ている”恐るべきエビ研究者バルタン伊藤であった。

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