WEB本の雑誌

第35回

■時よ戻れと念じれば必ず戻ると男は動いた


 二〇〇七年の正月はビエンチャンで迎えた。ラオスの正月は四月のピーマイ=水かけ祭りが本式だから、役所も企業も休みは大晦日と元旦の二日間のみ。一月二日からは、どこも通常通りの営業となる。そこでカフェ・ビエンチャンもそれに倣い、休みは元旦と二日だけとして二〇〇六年は大晦日までの営業とした。在住外国人の多くは休暇を取って自国に戻ってしまい、それほど客が見込めないだろうことはわかってはいたが、思いもかけない銀行凍結事件で長く店を閉めていたこともあったから、最後くらいはきちっと締めて終わりにしたい。そう思ったのだ。
 ところでラオスの大晦日といえば店の大常連である“焼肉大王”別名“ラオス牛タン販促連盟会長”から信じられないようなバカ話を聞いたことがある。それは革命三〇周年の記念年越しパーティが政府主催で祝われた二〇〇五年の大晦日のことだったという。
「年越しパーティが特別生中継されるということで、どんなものだろうって家でテレビを見てたんですよ」
 革命三〇周年を祝う政府主催のパーティといっても、さすがにラオスだけあってお気楽なもの。宴会場に丸テーブルを並べて飲み食いし、政府首脳の演説やらカラオケやらを聞くというもの。それぞれ一卓ずつのテーブルが売りに出され、金さえ払えば誰でもが参加できるのは、たとえ知人でなくても友だちの友だちはまた友だちみたいな感覚で、知らない人間の結婚式や誕生会に顔を出し飲み食いすることをあたり前としているラオス人らしい方式である。
「でも、テレビカメラは正面からステージを映したまま。それもフィックスしたまま動かないからつまらないのなんの。さすがラオス国営テレビだって、あくびが出まくり」
 ラオスのテレビ局は技術が幼稚なのか、それとも無駄に動いて疲れたくないのか、生中継をすると対象を正面から映すだけでパンすることもズームすることもない。カメラを二台以上使う場合でも、なぜか画面を切り替えるなどごくまれ。小津安二郎が失神し、蓮實重彦やドナルド・キーンが失禁するような意味のない長回しばかりなのだ。日本のサッカー中継みたいに、あざといまでにパンやらズームやら切り替えやらプレイ・バックやらを繰り返して肝心のゴール・シーンを外してしまうというのも考えものだが、さすがにここまで演出がなさすぎると芸術を通り越して退屈の極みというものである。二日酔いの朝に無理やり見せられるタルコフスキーだ。拷問である。加えてラオス人の大好きな恋愛ドラマもお笑いバラエティーもプロレス中継もないから、さすがにラオス人もつまらないとみえ、ほとんどの人はラオス国営テレビにチャンネルを合わせることはない。かわりに見ているのは、お隣タイから流れてくるタイのテレビ局の番組ばかりである。もともとラオス語はタイ語と親戚関係にあるから、ビエンチャンに住むほとんどの人々はタイ語を解することができるのだ。しかもビエンチャンに関して言えば、メコン河を挟んで向こう岸はタイなのである。テレビ電波なんぞ蛇口の壊れた水道のように、ジャカジャカと流れ込んできているというのが実情だ。見ない手はないというものだろう。
 しかしその大晦日のときには、神の悪戯であろうか。普段であれば拷問のごとき退屈で終わったはずの、ラオス国営テレビならではのパンなし切り替えなし生中継が、世紀の珍場面をスクープすることとなったのだからわからない。
 “ラオス牛タン販促連盟会長”略して“タン販連会長”が続ける。
「それでも他にやることもないし、一応、ラオス政治の研究者ですからじっと我慢して見てたんですよ」
 言い忘れたが“焼肉大王”別名“ラオス牛タン販促連盟会長”は、カフェ・ビエンチャンで連夜牛タンを三皿以上食べビールを浴びるように飲み、さらに深夜のビエンチャン市内をレゲエをかけながら用もなく車でパトロールしているとき以外は若きラオス政治研究者である。
「パーティは、日本のゆく年くる年みたいに深夜〇時に近づくとカウント・ダウンを始めてハッピー・ニュー・イヤーっていうのが、当初のプランだったらしいんです。だから政府首脳がしゃべったり歌ったりしているステージの背面には大きな時計があって〇時に向かって時を刻んでたわけですよ」
 長い髪を後ろで束ねた“タン販連会長”はうなずいた。
「で、〇時まで四〇分くらいってときだったかな。結構位の高い政府関係者がステージに上がって演説を始めたんですよね。まあ話はつまらないんですけど、それはいいとして、一〇分たっても二〇分たっても話が終わらない。そうこうしているうちに、話している偉いさんの後ろに映ってる大時計が、カウント・ダウンの時刻に近づいてきたわけですよ。あーあー、どうするんだろうなあって見てたんですけど、酔ってるのか話がだんだん熱を帯びてくる。と思ったら、いよいよカウントダウンじゃないですか。偉いさんの後ろの大時計もあと一〇秒ってところまで秒針が来ている。それとは別にテレビの画面には秒数を刻む時刻数字も出た。しかししゃべりは終わらない。司会はいないし、しゃべってるのが政府の偉いさんだから誰も止める人がいない。ラオス人て偉い人だとか権威だとかに極端に弱いじゃないですか」
「うん」
 日本人も権威に弱くて名刺に書かれた役職や肩書にはやたらと気を使う民族だが、ラオス人はそれ以上だ。しかも摩擦を好まず長いものに巻かれるのが大好きである。
「で、遂にカウント・ダウンもないまま時計の針は〇時を過ぎちゃったわけですよ。あーあーあーあー、やったよ。やっちゃったっよ。でもラオスらしいよって思ったんですけど。」
「はははは」
 ありそうなことだ。おれはうなずいた。しかし続きがまだあったのである。しかもとんでもない続きが。
「でもそれだけじゃ終わらなくてですね」
 一拍置いた“タン販連会長”がビアラオをぐっとひと口あおった。
「信じられないかもしれないですけど…」
 会長の口元に笑いがこぼれおちた。
「カウント・ダウンを潰して〇時を過ぎてもまだしゃべり続けてるお偉いさんの後ろに、すっと人が出てきたんですよ。政府関係者かテレビ局の人間かはわからないんですけど、そいつが何をするかと思ったらですね。これが信じられない! ホントに! すごいんですよ! びっくりですよ!」
 なんだなんだ!
 おれは身を乗り出した。絶対に面白い話に違いない。会長の吹き出しそうな表情に確信する。
 確信は間違ってはいなかった。
 会長が笑いをこらえながら続けた。
「その出てきた男がやったのが、びっくりしたことに、お偉いさんの背面に掛けられてる〇時をとっくに過ぎた大時計の長針を、指で〇時一〇分前まで戻したんですよ!」
 爆笑した。さすがラオスだぜ!
「日本のテレビ局だったらすぐに画面を切り替えて映さないところですけど、ラオス国営テレビですからね。もう画面は動く気配すらなくて正面からしっかりと! しかもお偉いさんの話はまだ続いていて。きっとお偉いさんに恥をかかせないようにとの、ラオス人らしいホスピタビリティなんですかね。でも間抜けなのは時計の針は〇時一〇分前までタイムスリップしてるのに、画面に映ったカウント・ダウンのための時刻数字は容赦なく刻まれていて、とっくに〇時を過ぎて元旦になってるんですよ!」
 楽しくなって、おれは叫んだ。
「嘘だあ! そんな面白いテレビ番組があってたまるか!」
「ホントですって!」
“タン販連会長”はきっぱりと答えた。
 グリニッジ標準時間を政府ぐるみで変えた地球上唯一の国。いや。手動でタイムトラベルを可能にした唯一の国。それがラオスである。
 しかしだ。よくよく考えてみると、べつに新年に入る時間が世界から一〇分遅れたとしてもいったい誰が困るというのだろう。カウント・ダウンさえ気持ち良くできれば、それが〇時三〇分になっていようと構わないじゃないか。時間も人生も自分だけのものなのだ。自分の時間は自分でつくる。楽しみもまた自分でつくるしかない。一〇分遅れて困るなら、自分で自分の時間を修正すればいいだけのことである。お偉いさんの後ろで時計の針を修正したラオス人のように。
 脳生理学者の渡辺俊男は言っている。
“その日一日楽しかったことを富と思え”
 こうしなければならないという世界の決めごとから外れる自由と楽しさ。日本から来てラオス人的な生き方が豊かに見える理由がそこにあるのだろう。
 おれはラオスに来て、また一つ学んだようだった。
 
 ということで、いろいろとあった二〇〇六年大晦日。帰国せずに残っていた日本人たちが集まって、店で年越しそばを食べた。
 午前〇時。花火が打ちあがった。
「おめでとう!」
 店の前に出て夜空に咲く花火を見ながら、みんなでビアラオのグラスを掲げた。肌寒さを覚えるほどに下がった気温だが、心は温かかった。さまざまな出会いがあった。ビエンチャンに来てほんとうによかった。そう思った。
 二〇〇七年が明けた。
 カフェ・ビエンチャン最後の年だった。

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