WEB本の雑誌

第46回

■桃色エロパンツ・サミア登場!

 ちょうどピーマイと前後した頃であったか(なんだかここのところ話はピーマイからちっとも進まないが、そこは何ごともスローなラオス・タイムだと思って容赦ねがいたい)。カフェ・ビエンチャンの右隣に新しい店がオープンした。名前は『サミア・フード』。アラブ男サミアが経営するピタパンを使ったアラブ・サンドイッチの店だ。
 カフェ・ビエンチャンが入っている建物は、もともとはラオスの伝統的な古い高床式住宅を三軒の家が棟割にしたものだ。本来なら柱が立っているだけの一階部分に壁を作って住めるようにしてあるから、外から見ると棟続きの一軒長屋といった感じになる。カフェ・ビエンチャンはその三軒のちょうど真ん中で、正面から見て左隣は微妙に色っぽい奥さんがいる昼間だけ営業の安いラオス料理を出す食堂。右隣は暇なくせに従業員だけがやたらと多い美容室だ。
 その美容室の隣にある角地には小さな平屋が建っていて、オーストラリア人の男と彼の奥さんであるラオス人女性が旅行者向け食堂兼カフェを経営していたのだが、経営不振のために二年ほど前に閉めてからは空いたまままになっている。場所としては町の中心部に位置していて好立地に思えるのだが、仲小路ということもあって、地元ラオス人相手の商売ならまだしも通りすがりの外国人観光客を相手とした商売となるとどうにも難しい通りなのである。建ち並ぶ建物も皆古い。なのに家賃はそこそこ高いときているから、なかなか借り手がつかない。通りの向かいにある棟割長屋も二軒の店が出て行ったきり、二年近く借り手がついていないありさまだ。そんな場所でありながら客も多く黒字を出しているカフェ・ビエンチャンは、ごく例外的な店なのである。
 アラブ男サミアのサンドイッチ屋は、カフェ・ビエンチャン右隣にある美容室の一角に突如として出現した。間口二メートル奥行きが六,七メートルくらいしかないその場所は、大家の娘が仕切っている美容室の一角を壁で仕切っただけのスペースで、もともとは違う美容室が入って営業していた場所だった。つまりすでに営業していた美容室の一部分を、別の人間が経営する美容室用に貸し出していたのである。日本でそんな方法をとって営業している美容室があるかどうかはわからないが、男相手の理容室ならまだしも、同業種に貸し出すというその魂胆がまたわからない。吉野家が店の片隅が空いているからといって松屋に貸し出したりするだろうか。それとも家賃が取れるならいいということか。どちらにしても無茶苦茶である。何も考えていない。しかしそれがラオスでもある。しかしそんな商法が当然ながら成り立つはずもなく、ずいぶん前にその小美容室は営業をやめてしまっていた。以来ずっと空きスペースである。そこにサミアが現れたのだ。
 年頃は三十前後。身長は一八〇センチ弱。スキンヘッドにしているのか禿げているのかわからないが、髪の毛はなく浅黒い肌が精悍な細身の男。それがサミアだった。エルサレムはガザの出身だという。
 サミアの店は手作りだった。友だちだというヒッピーくずれのオランダ人青年と、同じくオランダ人であるサミアのガールフレンドが木材を買い込んできてノコギリやトンカチを手に店の内装を施しているのを見たときには、同じようにカフェ・ビエンチャンを作っていたときのことが思い出されて、おうおうガンバレやなどとエールを送ったのだが、それも長くは続かなかった。
 水道問題だ。
 カフェ・ビエンチャンの店先。サミアの店との境界にあたる部分には、水撒きや掃除に使うための水道が一つ設けられていた。もちろんカフェ・ビエンチャン専用なのだが、屋台のフルーツ売りなどがきたときに手を洗ったりするのは、かまわずに使わせていた。隣近所の家でもそうしていたからだ。大家さん名義のラオス人料金で支払いをしていた水道代は安いし(水道代と電気代は外国人居住者料金というのがあって、そちらになると日本並みに高くなってしまう。おれの場合はうまいこと大家さんが処理してくれて、地元ラオス人料金での支払いだったのでどちらもバカ安。毎晩エアコンを入れっぱなしで寝ても電気代は月十五ドル弱。水道代も月一ドルか二ドルといったところだった。もっともラオス人にすれば決して安い料金ではないのだが)、たまに手を洗うくらいならたかが知れている。
 しかしサミアの使用は度を越していた。店がオープンするや、自分の店に来た客の手洗い用に使わせはじめたのだ。個人的にちょっと借用するというのならわかる。しかし商売として他人の店の水道を使うというのは仁義に反するだろう。しかもうちの店のトイレまで自分の店に来た客に使わせはじめたのだ。
「ちょっとトイレを使わせて」
 そんな客がサミアの店から頻繁にくるようになったのである。
 おれは断固として抗議した。
「自分の店のトイレや水道をどうして使わない!」
「ないんだ」
 サミアはしゃあしゃあと言いやがった。たしかにサミアの店にはトイレも水道も付いていなかった。しかし大家の娘が仕切っている美容室にはあるのだ。そこを使うというのがスジだろう。おれはスジが好きなヤクザの国から来た人間だ。
「美容室にあるのを使え。でなければ大家に言って作ってもらえ。とにかくうちの店の水道とトイレは一切使うな」
 言ってやった。
 横で聞いていた亀田さんもうなずく。
「いいんですよ。中東の人間には遠慮せずにビシッ! と言ってやらなきゃだめなんですよ」
 サミアは一瞬悲しい目をしたが、隣近所と楽しく暮らしていくためには最低限の礼儀というものをわきまえてもらわねばならない。商売をするからにはなおさらだ。おれは町内会が口うるさい国から来た男である。
「すまなかった。これからは使わない」
 アラブの商売人サミアは納得した。
 ところがその横に納得していない人間がいた。サミアのガールフレンド。オランダ人の下半身デブ女である。タイで知り合いラオスまで二人して流れてきたそうな。その流れてきた女が、なーに? この男。あー感じ悪い。みたいな目つきでおれを見たのである。それだけではない。彼女の四つになる息子が問題だった。サミアの子どもではなく女の連れ子だそうだが、話しているそばで水道栓をひねり、ジャージャーと水を出しはじめたではないか。
「このガキをなんとかしろ!」
 おれは怒鳴った。近所を素っ裸で走りまわるのはいいとしても、そのクソガキは何が気にくわないのかカフェ・ビエンチャンの店先に食い物滓をいつもひっ散らかしていきやがるのだ。一度などは何を食ったものやらゲロまで吐いていきやがったのである。躾もすこぶるつきで悪く、うちの店先の水道だけでなく隣近所の店先にある水道の蛇口を開けっ放しにして歩く始末。アラ主任が目撃したところによると、通りすがりのラオス人のおばあさんにラオス語でバーカと言って逃げたそうである。
「子どもって言葉を覚えるのが早いですよねえ」
 妙に感心して言うのだが、そういう問題でもあるまい。
「すまない。いつも子どもを管理しろと言ってるんだが」
 サミアの言葉に下半身デブのバカ母親がフンとあちらを向く。この親にしてこの息子である。
「いいか。二度とこの水道は使うな! わかったな!」
「わかった」
 サミアはうなずいた。
 しかし次の日だった。
 朝、市場の買出しから戻ってきたときだ。野菜や肉の入った袋を両手に持ったおれが十メートル先にあるカフェ・ビエンチャンをふと見やると、閉じたシャッターの先に小さな人影が。
「あああああああ!」
 おれは絶叫した。
「このクソガキがあっ!」
 素っ裸になったサミアの義理の息子が、シャッターに向かって立小便をしているではないか。
 おれの叫び声に店の中にいたサミアが出てきた。バカ息子を見てあわてた。
「すまない」
 カフェ・ビエンチャン専用水道の栓をひねるサミア。ジャージャーと激流。そのまま流れた水を手にすくい、クソガキがした小便を流し始めるサミアのバカ。
「てめえ、なめてんのか!」
 日本語で怒鳴った。
 素っ裸のクソガキが走って逃げる。オランダのバカ母親が顔を出して、かったるそうにバカ息子に声をかける。
「走るんじゃないの」
 サミアの店の奥からビジネスビザの闇手配をしているインド人が出てきた。そして何を思ったのか、おれに向かってにっこりと笑い言いやがったのだ。
「ノー・プロブレム」
 下半身にぴったりと張りついた異様に小さな桃色ショートパンツが気持ち悪いサミアが、おれに力なく笑いかけた。
 夕方、アラ主任が興奮した声をだしながら出勤してきた。
「見ましたかあっ! サミアのエロパンツ!」
 おれは吐き捨てた。
「ああ! 見たくもない!」

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