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第20回

■ビエンチャンの泥沼から


 ビエンチャンの行政区分は、ビエンチャン特別市、県、村の三つに分かれている。日本の行政区分に当てはめると市町村といったところか。しかし行政処理や事務を担当するのは、主に市と県の二つ。一番小さな単位である村は、住民登録を受け付けたり抱えている域内警官に村内の夜間警備をさせたりなどの行政をするにはするが、夫婦喧嘩の仲裁など住人のプライベートな問題まで相談に乗るといった、日本の戦前にあった隣組のような組織となっているのが特徴だ。
 カフェ・ビエンチャンの営業許可申請は市の観光局に提出されていた。その提出書類には、まだ店が出来上がっていなかったときに、保健所や警察、消防、村役場の担当者たちが壁も塗っていないカフェ・ビエンチャンにやって来て検査した、その検査結果が含まれている。店舗が出来ていないうちに検査結果もないものだが、ラオス人だってなぜそうなのか分からないのだから、外国人であるおれには尚更分かるはずがない。とにかく店舗が出来上がる前だろうと後だろうと、営業許可検査はいくらでも受けられるということなのだ。
 検査結果の書類には検査をした担当者のサインが記されている。そしてその書類が完全なものとなるためには、県の担当部署長のサインと村役場の村長のサインが記されなければならなかった。おれの住んでいるチャンタブリー県とミーサイ村のものである。
 チャンタブンによると、書類はあるにはあったが役所のどこかの部署で紛失し、いま探させている最中だという。
「で、どこの役所」
 おれは当然の質問を発した。
「いや。担当の者に探させているから、大丈夫だ。そうだな。二,三日中には見つかるだろう。出てきたら電話するよ」
 言うなり電話が切られた。
 嫌な予感がした。電話するよと言って電話してきた例がないのがここのところのチャンタブンなのだ。しかし彼に頼るしかなかった。営業許可申請の書類に関しては、すべて彼が差配していたのだ。実際にはブンミーさんも関わってはいたのだが、ブンミーさんはラオス語しか喋ることができないので、おれとはコミュニケートがままならなかった。
 電話を待つしかなかった。
 店は閉めたままだった。
 常連のお客さんは、日本に帰国もせず街をうろつくおれを見つけて、店も開けないで何してるのと必ず聞いてきた。一日に一度や二度は必ず知り合いに出会うのが、狭いビエンチャンならではなのだが、こういうときはどうにも面倒だ。だから冗談めかしてワールドカップ・ドイツ大会に向けての秘密トレーニングと答えることにしていた。
 そう。ワールドカップがすぐそこに迫っていた。フランス大会以来、数試合は必ずスタジアムで試合を観戦していたので、ドイツ大会も行かねばと張り切っていたのだが、それも無理になりそうだった。まあ、試合のチケットを手に入れていたわけではないので、行かなくても損害があるということではないのだが、大会の熱い雰囲気だけでも味わうためにドイツ行きだけでもと真剣に考えていたからがっかりだった。
 楽しみにしていた鋼鉄の妻も気落ちしたメールをよこした。
“ビールとソーセージ…”
 ちなみにたとえ正規の手続きでチケットが入手できなくても、試合当日に会場に行きさえすれば何とか入手できてしまうのがワールドカップである。ダフ屋の方々だ。法外な値段を吹っかけられると思うだろうが、国歌斉唱が終わり、試合開始のホイッスルが鳴る頃には値段はどんどん下がって、うまくすると正規の値段以下になってしまうのである。試合開始から二十分も経てば投げ売り状態だ。少しでも投資額を回収したいから、当然といえば当然である。フランス大会のとき、旅行会社の不手際で日本戦のチケットが手に入らず泣く泣くダフ屋から法外な値段で買わされた日本人たちのことが話題になったが、一日前二日前に手に入れようとするからそんなことになるのだ。じっくりと待てばいいのである。小心者は損をする。弱肉強食の資本主義の鉄則である。実際におれはその方法を使って正規値段で日本対クロアチアを観戦した。
 しかしだ。ことチャンタブンに関しては、じっくりと待つには限度を超していた。またしても連絡不能になったのである。毎日一時間おきに電話しても繋がらない。そうして四日。痺れを切らせて携帯ではなく自宅に電話してみると、ラオス中部の街サワナケットに出張とのこと。二日後に帰ってくるので電話させると言ったのだが三日経ってもかかってきはしない。そのうちに電話にはBUSYの文字が出るようになってしまった。頭にきたおれは、ブルースカイカフェのオーナー亀田さんに頼んで、ブンミーさんに連絡をとってもらうことにした。ラオス語通訳である。今回の件については、一度チャンタブンを交えて話し合っているので理解しているはずだ。ブンミーさんは、わかったと力強い返事。さっそく連絡して何とかさせるとのこと。さすが元上司である。
 ところが何日経っても何ともならない。再びブンミーさんに連絡してみると、酔っ払って話しにならない。奥さんによると無類の酒好きで毎晩酩酊してしまうらしい。そうなると返事だけ威勢が良くて、言ったことなどすぐに忘れてしまうのだという。ただでさえ人の話を忘れやすいラオス人だ。もう絶望的である。だが簡単に絶望しているわけにはいかない。絶望など犬にくれてやれとブコウスキーも書いている。おれはメコン河に捨てて、ブンミーさんの会社を直撃した。勤めている新聞社が、カフェ・ビエンチャンのすぐそばにあるのだ。しかしいつ行っても会社にいたためしがないときた。やれ取材で出ている。いつ帰ってくるのかと問えば、わからない。夕方にもう一度行ってみると、取材先から家に帰ってしまったらしいとの答え。らしいというのは、ブンミーさんが携帯を持っていないからで、新聞記者なのにそれで務まるのかと思うが、務まってしまうのがラオスだからしょうがない。とにかくこの調子で、ブンミーさんもまったく役に立たない状態に陥ってしまったのである。
 来週には解決すると言われ続けて、気がつくともう七月だった。カフェ・ビエンチャンのシャッターは閉じられたまま。ベトナムの泥沼に足を突っ込んだアメリカではないが、どうやらおれは、ビエンチャンの底知れぬ泥沼に足を取られたようだった。

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