第39回
■昆虫という存在の耐えられない軽さ
前回、恐るべきラオス蟻について書いたところ、さっそく元カフェ・ビエンチャン店舗兼厨房主任より厳しいチェックのメールが入った。
「蟻が群がってたのはご飯じゃなくてポテトサラダですよー」
とのことである。そうであった。さすが厨房主任。連日四〇度に達しようかという暑さと連夜のビアラオと赤ワインとジン・トニックとその他モロモロのアルコールによる泥酔で店主の脳が蕩けきっていたのをよそに、しっかりと仕事をこなしていたばかりか記憶もまた定かである。いや。彼女もおれに付き合って同じように連夜のビアラオと赤ワインとジン・トニックとその他モロモロのアルコールは欠かしてはいなかった。にもかかわらず、この記憶力だ。若さとは見るもの聞くもの触れるものすべてを記憶してしまおうとする強欲なまでの好奇心のことか。
では老いとは。
ポテトサラダが飯にすりかわってしまっても世界は変わりないと平然としている脳みそのことである。
「眞喜子さん、昼食は久しぶりにポテトサラダを作ってくれないかね」
「いやですわ、お父様。今朝お食べになったじゃありませんか」
「はははは。そんなはずはない。今朝食べたのはご飯と味噌汁と納豆、それに胡瓜の糠漬けだったじゃないかね」
「…お父様。今朝は食欲がないからとおっしゃって、ポテトサラダだけでお済ませになったんですよ」
「……そうだったかね」
「はい」
「…そうか。まあ、いい。それで眞喜子さん。昼食は久しぶりにポテトサラダを作ってくれないかね」
さて眞喜子さんが登場したところで、当連載担当編集者の松村眞喜子(仮名)からも、前回のラオス蟻襲撃に関して衝撃的なメールが送られてきたことを思い出した。
“アリの恐怖は昨年夏に実家でひしひし体験しました”
とのことである。
このメールのどこが衝撃的なのか。
問題は彼女の実家。つまり松村眞喜子(仮名)の出身地が関西圏であるということだ。
これまでカフェ・ビエンチャンを作るにあたってシロアリが出ただの体長一〇センチはあろうかというゴキブリが飛来しただのを、さも池袋東口横にある公衆トイレの便器からゴジラが出現したがごとく大騒ぎした文章で書き連ねてきたが、どうもこの大騒ぎの仕方は北海道に生まれ育った人間特有の大げさな騒ぎ方ではなかったかという疑問にぶち当たったのである。
青森から津軽海峡を列車で渡ったことのある人は、車窓から見る景色が青森で見ていた景色とまるっきり違っていることに驚いた経験があると思う。それは北海道と本州との植物相の違いだ。自然に生えている樹木の種類がまるっきり違うのである。生えている植物が違えば、そこに生きる昆虫の類も当然異なる。同じ種がいたとしても大きさが極端に違う。本州のものに比べてすべてがミニサイズなのだ。
たとえばゴキブリである。北海道にもゴキブリはいるが、大きくても一センチ前後のミニサイズ。それも飲食店ビルに生息するくらいで一般家庭ではほとんど見ない。シロアリにしてもいるのだろうが、被害にあったとか気をつけましょうとかの話をまず耳にしない。厳しい冬のせいなのか、昆虫の種類も本州よりもずっと少ないような気がする。だからなのだろう。おれのまわりにいる北海道に生まれ育った友人知人は、おれを含めて極端に昆虫に恐怖心を覚える人間が多いのだ。だから本州の人間もみな同じように昆虫を恐れるか苦手にしているものだと思い込んでいた。
ところが松村眞喜子(仮名)のメールである。一応そこには蟻への恐怖が綴られている。だが蟻という昆虫の存在に対する生理的な恐怖ではなく、その行動に対する驚きしか感じられないのである。
蟻? うざいけど、結局それだって存在の耐えられない軽さだけよね。
みたいなものだ。午前二時の石神井公園でオオサンショウウオに後ろから抱き付かれても、本州人なら、松村眞喜子(仮名)なら、一瞬驚きはせよ“ああ!ウルセエッ!”と不機嫌な顔して蹴飛ばすだけではあるまいか。だが、それがおれであったなら声も出せずにウンコを漏らしてしまうと思うのだ。つまり何をいいたいのかといえば、本州人、とくに関西系本州人の多くは幾千万のシロアリも飛来する超巨大ゴキブリも日常茶飯事のことで、おれがここに書いていたほどには驚くべきことではないのではということだ。
そのことを証明するかのような出来事があった。
ネズミ殺し未遂事件である。
カフェ・ビエンチャンは古い棟割長屋を改装して作っただけに、ネズミがやたらと多かった。いや。そもそもビエンチャンの古い住宅はネズミが多く出没するのがあたりまえで、別段驚くべきことではなかった。
ある夜のことである。その夜は貸しきりパーティが入っていて、厨房は料理作りや食器洗いなどでおおわらわだった。しかしそこはカフェ・ビエンチャンである。パーティ参加者の一人が食器洗いを手伝ってくれていた。名前は彼女の名誉のために出さないが、元貧日会の小姐Mである。
彼女はシンク前に立ってグラスや皿を手際よく片付けていた。
「助かるなあ」
後ろで料理を盛り付けていたおれはいった。
「まかせてくださいよ」
「おう」
おれは小姐Mの言葉に盛り付けを急いだ。
そのときである。視界右四二度のあたりに何か動くものを見つけたのだ。
おれは顔を上げた。
体長一五センチほどのネズミが壁を伝って天井から降りてくるところだった。
思わずおれは午前二時の石神井公園でオオサンショウウオに背中から抱きつかれたかのような声をあげた。最近の北海道ではめったにネズミなど目にすることはない。
「うわあああああっ! ネズミだああっ!」
運良くウンコは漏らさなかった。
反応したのは小姐Mだ。
「うわっうわっ」
しかし食器を洗う手は休めない。
やるじゃないか。小姐Mの勇気におれは負けてはならじと、そばにあった箒を素早く手に取った。
床に下りてきたネズミに振り下ろした。
しかしネズミは五十を越えたおれよりも当然ながら動体視力がすぐれていた。箒をするりと抜けた。
追いかけた。
獣の浅知恵。すぐさま壁際に追い詰めた。
ところがだ。いま一度箒を振り下ろそうとするや、窮鼠おれを噛もうと反転しておれに向かってきたのである。
「うわあああああああっ」
おれは午前二時の石神井公園でオオサンショウウオに強姦されたかのような声をあげた。
ネズミが足もとを抜けて小姐Mに向かって走っていく。
「そっちだ!、そっち!」
おれの言葉に小姐Mが反応した。
「うわうわうわっ!」
皿を手にしたままMが叫ぶ。
ネズミがMの足もとをすり抜けようとした。
そのときである。
おれは信じられない光景を目にしたのである。
Mがさらなる声をあげながらやったこと。
驚くではないか。足もとをすり抜けようとするネズミを踏みつけにかかったのだ。
息が止まった。
目をそむけた。
「うーぃぃ!」
Mがラオス人みたいな声をあげた。ちなみにラオス人は驚くことがあると必ずこのような声をあげるのだ。
おれは恐る恐るMの足もとを見た。地も肉片もなかった。
「逃げられましたね」
小姐Mは何事もなかったかのように皿洗いを再開した。
彼女の名誉のためにいっておくが、彼女は決して冷血ターミネーターのような娘ではない。小柄で気の優しい小娘である。しかしなぜ彼女はネズミを踏みつけるという暴挙に出たのか。
いまならわかるのだ。
彼女の出身である。
彼女の出身は本州。しかも昆虫も動物もディズニーのアニメのなかのように豊富にいるらしい滋賀の山奥で育ったのである。
野性の血が知らずに騒いだか本州娘。そう考えれば世界も広いが、日本も広いではないか!