WEB本の雑誌

第43回

■浦和レッズなんて大嫌いと沢尻エリカは言った

 四月のラオス正月ピーマイが終わると、それまで連日のように晴れ渡っていた空が、一挙に雨季準備モードである灰色の雲に覆われるようになる。七月の仏教行事カオ・パンサー以降に突入する本格雨季への序章だ。
 そもそもピーマイ自体が暦の上で乾季の終わりと雨季の始まりを告げる役割を果たしているのだが、それにしても、毎年ピーマイが終わった翌日から計ったようにスコールの毎日となるのには驚かされるというものである。逆に雨季の終わりを告げる十月の祭事オーク・パンサーを過ぎれば、これまたそれまでの雨空が嘘のように晴天ばかりが続く毎日となる。ラオスで作られているカレンダーには必ず月の満ち欠けが記されているが、祭事・歳時がいまだに太陰暦をもとに行われているおかげなのだろう。人間の生活と自然のサイクルが調和しているのだ。
 しかし古くからの祭事・歳時を太陰暦に則るというのは、なにもラオスだけに限ったことではない。中国はもちろん韓国だってベトナムだってタイだってマレーシアだって、古い歴史を持つアジア各国すべてが残し行っていることである。明治近代以降に祭事・歳時まで西洋暦に合わせてしまった日本だけがおかしいのだ。そのせいで春夏秋冬すらもが実際の気候に合わなくなっている。だから本来ならば初春であるはずの正月が冬の真っ盛りである。季節感覚がもともと備わっていた日本人の身体感覚に合わないのだ。人間が自然の一部とするならば、狂った季節に生きるわれわれの心や体が狂い荒れるはずである。サマータイムを論じるくらいなら、祭事・歳時を太陰暦に戻すほうがよほど合理的ではあるまいか。
 もっとも世界的な気候異常はラオスでも例外ではなく、乾季なのに雨の日が続いたり、雨季に入ったのになかなか雨が続かないなどはここ数年の特徴らしい。五月に入ると急激に水嵩を増し激流となるメコン河も、年々水量が減っていっているという。不都合なメコン。こうなるとこれからは太陰暦も使い物にならなくなるかもしれない。地球はいったいどうなるのか。困ったものである。
 
 さて二〇〇六年末から二〇〇七年にかけては、カフェ・ビエンチャンには懐かしい顔を含めて、思いもかけない人が訪れるようになっていた。サッカージャーナリストの後藤健生氏もその一人だ。二〇〇六年末にタイで行われたキングス・カップ観戦の前に、ラオスで働いている日本人の知り合いを訪ねてきたそうである。ついでにラオス政府のスポーツ担当省の人間に、Jリーグ発展の理由とラオス・サッカーへの提言をしてくれということで簡単な講義をしてきたとのことだ。
 後藤氏にはずいぶん前に会ったことがある。トルシエ時代の日本代表がレバノンで試合をしたときに、観戦していた席のすぐ上の席に座っていたのだ。ハーフタイム。目の前で繰り広げられていた中村俊輔の素晴らしいパフォーマンスについて思わず話しかけた。もちろん後藤氏はそのときのことなど覚えてはいなかったが、まさかカフェ・ビエンチャンで再び会えるなど、思ってもいなかったことである。カフェ・ビエンチャンは人を呼ぶ。ほんとうに不思議な店だ。
 後藤氏はラオスのサッカー関係者への講義が終わって店に顔を出した。面白かったのは、講義で日本代表が力をつけた理由の一つとしてJタウンを含めた芝のピッチの整備を写真を見せながら説明しようとしたところ、ラオスにはないものを見せて羨ましがらせるようなことをしないでくれと、政府関係者に写真を映し出すことを止められたという話だ。こういうところはいかにもラオスらしいところで、社会主義政権お得意の外部情報遮断というよりも、自国が貧乏に見られたくないという自意識過剰のええ格好しい感覚がさせているのではないか。ラオス人はけっこう見た目を気にする性向があって、それは政府にもあてはまるのだ。ノホホンと適当に生きている割にはプライドが高いのである。
「はははは。らしいなあ」
 後藤氏の話におれは手を叩いた。
 それからはJリーグのこと、日本代表のこと、オシムのことなどについて、ラオスにいるとわからないサッカー話を存分に聞かせてもらった。びっくりしたのはヴァンフォーレ甲府の話題が出たときだ。
「頑張ったと言ってもJ2じゃあ地味だなあ」
 おれの言葉に後藤氏が怪訝そうな顔をした。
「甲府は今年J1ですよ」
「ええっ!」
 すっかりおれは浦島太郎だった。二〇〇五年末に甲府がJ1昇格を果たしたということを知らなかったのである。インターネットがあるとはいえ、ラオスはやはり世界の片隅であることを痛感するひと言だった。
 後藤氏がカフェ・ビエンチャンに顔を出したのはちょうど浦和レッズが初優勝を果たした年の末でもあった。
 しかしおれはドカドカと攻めるだけの知性なき高校部活サッカーみたいな埼玉田舎者ヤンキー蹴球団・浦和レッズが大嫌いである。そのことについては『カフェ・ビエンチャン大作戦』にも書いたのだが、それを読んだレッズ・サポおやじがたまたま旅行でビエンチャンに来たときにわざわざ文句を言いに来たのには驚いた。さすがレッズ・サポ。しかしおれに言わせりゃ野暮である。“どうにも強くて憎まれてる部活サッカー好きの者ですが”くらいのことを言ってジンの一本でも差し出すくらいの度量と粋がほしいやね。と、談志師匠ならおっしゃるだろう。そうしたならおれとしてもすぐに転向してレッズ・サポと一緒に“インターナショナル”合唱するけどね。あれ? レッズの応援歌って“インターナショナル”じゃなかった?

  起て!万国の労働者!
  とどろきわたるメーデーの
示威者に起こる足どりと
未来を告ぐる鬨の声
神も皇帝も死んじまえ!
  いざ戦わん!
わしら赤!
  わしら赤!

 などと書いたらまた罵声を浴びせられるんだろうなあ。でもあのサポーターの人たちって性欲が異常に強そうで怖いんですもの。嫌いなものは嫌いなんだもん。と十七の純なネエちゃんのフリ。
「そんなわけでおれはレッズが優勝したことについては、日本サッカーの未来のためにもどうにも我慢ができんわけですよ」
 と後藤氏に言ったわけだ。すると後藤氏はおっしゃってくれたね。
「遠藤が怪我で後半戦を欠場してなかったらガンバが優勝してましたよ」
 レッズとデッドヒートを繰り広げていた、ガンバ大阪の中心選手であり日本代表になくてはならぬ遠藤保仁のことである。
 おれはしたり! とテーブルを叩いた。このときまさか後藤氏がレッズに対する筆禍事件でレッズ・サポから総スカンを喰っていたとは知らなかったが、こんなことを書いている時点でおれも総スカンだろう。でもおれは沢尻エリカのように自分に正直に生きたい。
 浦和レッズはやっぱり嫌いだ。
 そんなわけで後藤健生氏をはじめとして、「カフェ・ビエンチャン大作戦」を読んで来てくれた沖縄の大学の先生や一九九九年にルアンパバンで出会ったT夫妻。ちょうど日本に帰国しているときで会えなかったが、わざわざ店を訪ねてくれたらしい作家の下川裕治さん。あとであらためて書くが伝説のバンド“たま”のボーカル知久寿焼さん。もちろん熱くて野暮なレッズ・サポおやじ。会社を辞めるや引退したマラドーナのように太ってしまった一時期一緒に仕事をしたことのあるS君。話しているうちに障害者スポーツの本を出したときの編集者が共通の知り合いだったことが分かって驚いた車椅子バスケット連盟の副会長。店の掃除を汗だくになって手伝ってくれた、北海道新聞に映画コラムを連載していたときの担当編集者Sさん。それにわがカフェ・ビエンチャンの楽しい仲間である日本に帰国していた山口オヤジが久しぶりにやって来て飲んだりと、店はますます楽しい賑わいをみせる二〇〇七年五月だった。楽園はいつまでも続きそうに思えた。浦和レッズよりも、おれは連敗の泥の海に沈んで浮上することなく闇に消えた“クソボロ潜水艦”コンサドーレ札幌の行方が気がかりだった。日本ではさまざまな不祥事を抱えたダックスフント安倍晋三が脂汗を流していた。そして閉店まではもうすぐのことだった。

記事一覧