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第38回

■ラオス蟻、襲来!


蟻が大量発生した。シロアリではない。普通のアリさんだ。普通のアリとはどんなアリだと問われても、ファーブルの血筋を引いているわけでもジェラルド・ダールの弟子でもないから説明のしようがない。だから普通のアリさんで理解してもらうしかない。それでは不親切だろうというのなら、こんな説明ではいかがでしょう。
 昆虫の死骸や食い物の欠片に群がる日本でもおなじみのアリさん。しかし日本でよく見る蟻よりもずっと小さい。
 まあ、そんな蟻だ。
 で、その蟻が大量発生した。
 入居時に悩まされたシロアリのほうは完全駆除とはいかないまでも、殺虫剤散布による悪戦苦闘激闘卍固めの甲斐があってかずいぶんと少なくなった。しかし今度は普通のアリさんである。
 それまでも蟻はいた。寒い冬が過ぎ気温が上がってくる三月になると、店の壁を一列渋滞となって行進する蟻の姿はよく目にしていた。ラオス正月ピーマイが終わる雨季はじめの四月半ばから活動はやや衰えるが、それでも雨季が終わる十月半ばくらいまでは、来るべき冬の備えのためなのかせっせとお働きになっている。だがシロアリとは違って建物を食い荒らすわけでもなく、厨房でも被害は皆無といってよかったから、ほとんど注意していなかったのだ。
 それがこの年二〇〇七年は違った。なんと厨房に大量発生して、作る料理作る料理に次々と襲いかかってきやがったのだ。
「うげげげげげぇっー!」
 奇声を発したのはカフェ・ビエンチャン店舗兼厨房主任のアラ先生である。シーホムにある日本語学校の赤貧日本語教師というのは、初代カフェ・ビエンチャン・スターウェートレスだったクロコ先生と同じだ。しかし驚きであったのは、ビエンチャン最悪の料理屋であるシンガポール料理食堂で出していた飢えた犬も食わないような最低カレーを普通だと評する舌ながら、料理を作らせるとなぜか上手なのである。レシピを教えると、一度でみごとに思っていたとおりのものを作り上げてしまうのである。それだけではない。作る過程に創意工夫があるのだ。ということは、教えたなら自分なりの料理を創造することもできるのではないか。台所の天才であるおれは直感した。料理とは既存の料理への足し算・引き算でいくらでも新しい味が作り出せるものだ。その足し算・引き算ができるかどうかがもともと備わったセンスというものである。センスのない人間がいくら頑張っても決まりきったものしか作れないというのは、スタジオ・ミュージシャンがいくらテクニックに優れていようとキース・リチャードになれないのと同じである。上手だが面白くない。
 アラ先生には料理のセンスがあった。しかも舌がおかしいのにである。これはまことに不思議なことで、北大路魯山人も開高健も驚いて自著に書き記したに違いない珍現象である。残念なことに二人ともこの世にいないからわたしが代わりに書き記そう。
 センスの高さは舌の悪さを凌駕する。
 発見であった。
 おれは店舗担当主任だけを考えていたアラ先生に、すぐさま料理主任の称号を与えることにした。もっとも主任手当てはないから、現在問題になっている大企業の悪徳システム“名ばかり主任”と同じなのであるが。
 さて何の話であったか。
 蟻だ。
 話をはじめるとあちこちに話題が飛んでなかなか本題に入らないというのは、巣鴨世代のオバチャンたちに共通する悪しき性癖だが、前期高齢者であるおれもいよいよそこに仲間入りか。まあ、いいや。年寄りはこの世に言っておきたいことを山ほど抱えてるんでぃっ!
 えー、また脱線しました。
 蟻だ。
「ぎょえええええええええーっ」
 アラ主任の叫び声に本日の仕入れを記録していたおれは振り返った。
「蟻が! 蟻が!」
 日本の単位でいえば二十畳ほどの広さの厨房。奥の壁に沿って長さ二メートル、奥行き八〇センチほどの調理台兼ガステーブル。背中合わせに長さ一メートル半、奥行き八〇センチほどのシンク兼調理台がある。その間に立ってアラ主任は料理の下拵えをしていたのだが、壁に沿った調理台に置いてある皿を見て固まっている。
 おれはすぐさま立ち上がり、アラ主任が見つめ固まっている皿を覗いた。
 皿に盛られた白い飯が群がった蟻で真っ黒である。黒飯である。
「お皿に盛ってここに置いてから二分もたってないんですよ!」
 それ以前にも調理台に置いてある調味料や土鍋で仕上げた角煮などが被害にあっていた。蓋を閉めた炊飯ジャーの中にまで進入し飯粒を運び出していたこともある。その勤勉さは二宮金次郎も逃げ出したくなるほどものだが、今回はそこに速さが加わったのである。山下奉文将軍のマレー上陸にはじまるシンガポール攻略もかくありなん! まさに電光石火の進撃であった!
「巣を叩かんとダメだな」
 売っている殺虫剤は、シロアリ、普通アリ、蚊に蝿にゴキブリと何にでも効くと表示されている強力なものだが、そんな強力な毒薬を料理を作る場所で噴霧したくはない。それに蟻というものは隊列をいくら殲滅しても、巣にいる女王蟻を倒さなければ無駄であると聞く。そこのところは世界悪女列伝中の首位をひた走るカトリーヌ・ド・メディチと同じである。カトリーヌの子どもを拉致して立てこもった賊に向かって傲然と立ち上がった彼女は、スカートをめくり上げてこう叫んだそうだ。
“殺すなら殺してしまいな! 子どもなんぞこの腹からいくらでも生んでやるわ! くわっくわっくわっ!”
 うーむ…。
 目の前で黒い塊となった蟻が飯粒をせっせと運んでいた。隊列を追いかけると、調理台のタイルの目地に開いた針穴をすこしだけ大きくした穴から続々と出てくる。
「“蟻の巣コロリ”を仕掛けるしかないな」
 おれはアラ主任につぶやいた。
 翌日、日本で売っているのと同じ形態のタイ製“蟻の巣コロリ”を買ってきたおれは、見つけた蟻の巣穴近くに置いた。ほどなくすると、小さな黄色いプラスチックケースに入った顆粒状の毒粒を見つけた蟻が続々と集合し巣へと運びはじめた。
「愚かものめ。所詮、おぬしらは虫けらよのう。これを食った女王が死ぬとも知らずに」
 おれはほくそえんだ。
 一時間もすると、毒はすっかり巣に運び込まれて蟻の行進は終わりを告げた。これで終わりだ。
さらばだ!
 蟻よ! 
 しかし授業の合間を縫って料理の仕込みにやって来たアラ主任が、新たな叫び声を上げるまでに時間はかからなかった。
「ぎょええええええええっ! 蟻は死んでません! なんだか昨日よりもっと元気になってますよ!」
 蟻の巣コロリの毒粒はユンケルだったのか。見ると蟻は元気百倍の勢いで調理台を縦横無尽に走りまわっているではないか!
「酢をかけろ! 焼き殺せ! 殺虫剤を撒け!」
 それは殺到する敵に我を忘れ叫ぶ敗軍の将そのものであった。
 それにしてもコンクリートで固め作った調理台のなかに巣穴を作るとは、ラオスの蟻の顎の強さと食い意地は強烈をとおり越して脅威ではあるまいか。ちなみに蟻の被害は食い物だけにとどまらなかった。なんと二階の洗濯場に置いてあった汗臭いTシャツやパンツを食いちぎって穴だらけにしたばかりではなく、干しておいたバスタオルにも群がって、それと知らずにシャワーの後にそれで体を拭いたおれの体を噛み跡だらけにしやがったのである。スター・ウエイトレスのクロコ先生が発見し教えてくれた、“ラオスの蟻は汗臭いパンツを好む説”に疑問を持っていたおれだが、ここに彼女の説が正しかったことが証明されたわけである。
 もう一つ言い添えておくと、蟻に噛まれたあとに残る痒みは激烈だ。ラオスの蚊なら刺されても二時間もすれば痒みは引くが、このラオス蟻の場合はヘタをすれば一カ月近くも痒みが残るのである。蟻が群がったパンツを履かずに済んだ幸運に、おれは心から感謝したのであった。

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