WEB本の雑誌

第17回

■疫病神たこ焼屋再臨!

 日本人の場合、取りあえずの人生目標をどこに置くかというと、いつか自分の家を持つというのがほとんどではあるまいか。
 持ち家。
 夢であり目標だろう。
 しかしこの家を持つという願望が、おれにはまったくといっていいほど欠如しているようなのだ。結婚してからも、家など持ちたいと思ったことなど一度としてない。いや。そもそも何かを所有したいという願望が希薄なのである。全てはいつか消えてなくなる。なくなるものを持っていても仕様がない。そんな思いが高じて子どもまで持たなかったというのは余計だが、ビル・ゲイツのように金が有り余っているのならまだしも、何百万も何千万も借金してまで家を持つ気にはどうしてもなれなかったのだ。
 で、ここまでずっとアパート住まい。飽きたら違う場所に引っ越せるという軽さもあるので、これで満足なのだが、まさか取り壊しのために引っ越す破目になるとは思いもしなかったというものだ。しかもビエンチャンに身を置いているさなかにである。
「わたしがあんまり大家さんに雨漏りのことを言い続けてたから、キレたのかなあ」
 電話から聞こえてくる妻の声には、一大事にもかかわらず、どこか面白がっている調子が含まれている。
 住んでいたアパートは築四十年以上の骨董アパートで、入居以来雨漏りに悩まされ続けていた。そこで何度となく大家に言って直してもらいはするのだが、鉄筋三階建てとはいえ、あまりにも古いためどこから雨漏りしているのか業者にも分からずじまい。とくに屋上に雪の積もる冬場ともなると、暖房で使っている集合煙突の暖気で周辺部の雪が融けるせいなのか、結露で生じる水分とともに部屋の天井から水滴がひっきりなしに落ちてくる始末。五年ほど住んでいたうちの三分の一くらいを家賃なしということにしてもらっていたのだ。
 しかしそれもうちだけの問題ではなくなったようで、他の入居者も同じような問題が生じてきたらしく、ついに大家もサジを投げて建て直しに踏み切る決心をしたらしい。しかも建て直す予定のものは分譲マンション。築四十年の格安骨董アパートに入っている人間が、はいそうですかと住み替えられるような物件ではないことは確かだ。
 出て行くことに異存はなかった。家賃が格安で時にはタダになるということを除けば、冬は寒く雨漏りもひっきりなしのボロアパートだったから、何の未練も思いもない。そもそもそんな骨董アパートに住んだ理由というのも、その前に住んでいたアパートで、階下にいた住人が覚醒剤中毒の元チンピラヤクザのたこ焼き屋という相当にイカレタ男にわけの分からぬ因縁をつけられ、緊急避難的に転がり込んだだけのことだ。ときどきおれがその男の部屋の窓に石をぶつけるという幻覚だか幻聴に襲われて、怒鳴り込んでくるようになったのである。アパートの管理会社になんとかしろと言ったのだが、管理会社なんざ転居時に部屋の汚れをあげつらって金を取ることくらいしか能がなく、こんな問題が起こると逃げ腰になって何もしないどころか電話にも出やしない。本来ならこちらが出て行くことはないのだが、管理会社が何もしないから階下の幻覚・幻聴チンピラヤクザも出て行く気配がない。そうこうするうちに怒鳴り込んでくる回数も増えて、身の危険を感じ緊急避難的に骨董アパートに転がり込んだのだ。
 思えばその転居後からである。おれがメニエル病にかかったり鋼鉄の妻と二人乗りしていた自転車が車にぶつけられたりしたのは。ひょっとしてあの幻覚・幻聴たこ焼屋は疫病神だったのかもしれない。疫病神はあなたの隣にいる。恐ろしいことだ。
「べつにうちが大家に文句を言ってたから取り壊すことに決めたわけじゃないよ。アパート自体が寿命だったんだよ。それより早く住む場所を見つけなきゃならないなあ」
 退去期限の十月末まではまだ半年あるが、都合のいい物件はなかなか見つからないというのはこれまでの引越し歴からわかっている。まして飼い猫がいるのだ。ペットを飼える物件というのはなかなかない。しかも難病指定を受けた鋼鉄の妻は、二週間に一度くらいの割合で病院に通っているから、勤め先の関係もあってなるべく住んでいる所と病院そして職場とを結ぶ交通の便が良い場所を選ばねばならない。家賃の問題も加えたら、おいそれと見つかるようには思えない。また見つかったとしても、鋼鉄の妻の体や勤めのことを考えると、物件探しから引越しまですべてを任せてしまうわけにもいくまい。
「とにかく帰るよ」
 おれは言った。大家に任された業者と、退去時にもらうべき引越し代金の取り決めもしなければならない。
「うん。そうしてもらうと有難い」
 入院のときには帰って来なくてもいいと言った妻だったが、今度ばかりは手に余るようだった。
 おれは帰る日取りを決めるため、日本への飛行機の空きを調べ始めた。カフェ・ビエンチャンの営業許可発行のための資本金問題も、暗礁に乗り上げたままだった。
 このまま店を畳んで引き上げるしかないか。まあ手作りで店を作って、まがりなりにも半年以上は営業したのだ。これはこれでよしとせねばなるまい。
 そう思った。
 ところがだ。思いもかけずに資本金問題が解決してしまったのだ。知り合いが、残高証明書を作ってすぐに引き出し戻してくれるなら、足りない分を融通してあげようと申し出てくれたのだ。
 あらためてチャンタブンに確認すると、銀行に入金したお金は、間違いなくすぐに引き出せると言う。
 おれは申し出を受けることにした。
「資本金問題が解決した。すべて処理して、五月の日本のゴールデンウィーク明けに札幌に戻る」
 鋼鉄の妻に電話した。
 疫病神は去った。
 そう思った。
 しかし幻覚・幻聴たこ焼屋の呪いはまだ解けていなかった。いや。さらにスケールアップして、おれを地獄の底に突き落としたとわかったのは、ほどなくのことだった。

記事一覧