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第51回

■ラオス人化が過ぎて脳が液化すると人はどうなるかについての考察

「ビエンチャンに住んでるのに、何をマジメに仕事なんかしてるんですか! それより朝飯食べに行きましょうよ!」
 ほぼ毎日。朝九時頃になるとカメちゃんがやって来る。ブルースカイ・カフェのオーナー亀田さんだ。年齢は四十六歳。ビエンチャン在住六年になる。
 五十過ぎのオヤジが四十六のオッサンにカメちゃんもないもんだと思うが、一年前に日本から遊びに来たフリー編集者Hさんの小学生になる娘二人にカメちゃんクロちゃんと呼ばれて以来、ついつい口癖になってしまったのである。
「料理の仕込みに掃除と、オーナー・シェフは毎日目がまわるくらい忙しいんですよ」
 これまた毎朝同じセリフでの返答だ。
「だからラオス人を雇えばいいんですって」
「ラオス人に仕事させるより、自分でやったほうが早いし気が楽」
「ラオスに来た意味がないじゃないですか。ラオスでは仕事より遊びですよ」
 カメちゃんの持論である。というよりもラオス在住日本人に多かれ少なかれ見られる傾向とでも言おうか。何ごとも"ま、いいか"という思考である。ラオス語でボペニャン。つらいことは先延ばし。時間にはルーズ。約束守るのはそこそこ。仕事より遊び。今さえ楽しければ人生問題なし。特にラオス時間を軸に仕事をしている亀田さんやおれなどは、どうしてもこのボペニャン思考に染まってしまいがちだ。おそらく精神の奥底に眠っている江戸人遺伝子が覚醒されるのであろう。だから亀田さんに"ビエンチャンに住んでいるのにマジメに仕事なんかしてたら人間ダメになってしまいますよ〜"などと言われると、そうだよなあと妙に納得してしまうおれなのである。
 しかしおれはカフェ・ビエンチャンを守らねばならない重い責任を負うた孤高のオーナー・シェフ戦士だ。そうそうラオス人化しているカメちゃんと遊んでなどいられない。
 だからきっぱりと言う。
「じゃあ一時間くらいなら」
 結局二時間は朝飯食って午前中が終わってしまうのだが、そうなってもちっとも反省などしないのはおれもすっかりラオス人化しているためなのか。それとも暑さのせいなのか。そういえばビエンチャンに住めば頓挫していた小説も、どうにか書き改めてモノにできるはずと考えていたのだが甘かったとつくづく思うラオス三年目である。二十年はき古したオヤジパンツのゴムのようにダラリと伸びきった空気に馴染んでしまうと、モノ書き仕事などとてもやる気が起きないのだ。
 それでも自分を鞭打って、どうにか文章を書きはじめても五分と続かない。いや。そもそもひとつのことを五分と続けて考えることができないのである。だから小説だけでなく受けていた映画の脚本書きも放ったらかし。脳がヘラヘラ笑っていた。笑った脳で文章など書けるはずもない。同じような空気が漂っていると思われるキューバに住みながら、ヘミングウエイはそこのところをどう克服したのであろうか。もっとも克服法を知ったとてそれはヘミングウエイだからこそのことで、おれの脳が笑いを止めないだろうことは確かなのだが。
 しかし脳がヘラヘラ笑っている日本人はおれやカメちゃんだけではなかった。ヘラヘラ笑うどころかラオス人化が過ぎて液化している日本人もいるというのがビエンチャンの恐ろしさだ。たとえばラーメン屋のユウさんである。
 三十代半ばになる大阪人ユウさんについては、経営しているラーメン屋で雇った脳天気ラオ娘のことやイカレポンチ青年海外協力隊員との深夜バトルについてのことでこれまでも何度か書いたが、じつは書くべきはユウさん自身のことであったのだと、最近はたと気づいたのだ。彼の行動が常日頃からあまりにも常軌を逸しているために、それがおかしいとは思えなくなっていたのである。慣れというのは恐ろしい。戦場にいれば恐怖も日常と化す。あばたもエクボ。朝青龍も黒木瞳。
 たとえばこのようなことを聞かされたことがある。
「夏に日本に帰ったときは、親戚の家に行って桃の収穫を手伝うてくるんです」
 おれはユウさんの店でラーメンをずるずるとすすりながらフムフムとうなずいた。親戚は桃農家なのだという。しかもブランド物の桃を栽培していて、小売に出すと相当に値段が張る逸品らしい。
「で、最後にそのブランド桃を何箱かもらうわけです」
「もらうんじゃなくて、勝手に持ってきちゃうんじゃないの?」
 おれは一応冗談のつもりで合いの手を入れた。
「そうですねん」
 ユウさんの答えだった。
 すすっていたラーメンが喉に詰まって噎せ返る。ゲホゲホグハゲホ!
「そんでその桃を売るんですわ」
「売るって、ネットか何かを使って?」
「そんなめんどくさい。路上で売るに決まってますやんか」
 ゲホゲホグハ! ひょっとして大阪あいりん地区の露天商売のことを言っているのであろうか。
「あいりん? そんなとこで売りません。だいたいあんなドヤ街で売っても金にならへん。超高級ブランド桃ですよ。結婚してる妹の家の玄関前に並べるんです。ちゃんとした住宅街やから、高い値段つけても売れるんですわ」
 グハゲホ!
「妹さんも一緒になって売るの?」
「まさか」
「まさかって」
「無断です」
ゲホゲホ!
「無断て、妹さん、そんなことされて何にも言わないの?」
「言います。お兄ちゃん、お願いだからやめてって」
 グハグハグハゲホグハ!
 ほんとうの話かどうかは分からない。しかしありうる話だと思うのは、次のようなおバカなことを平気でしでかしたりするからだ。
「鉄板焼きはどうなったの」
 久しぶりにカフェ・ビエンチャンに顔を出したユウさんにおれは聞いた。
「ああ、あれ。ちゃんと鉄板焼きの台はこしらえたんですけどね」
 ユウさんの店はラーメン屋だったのだが、おれ以外の客にはなぜか手抜きして出すことが多く、ラーメンはあらかじめ予約注文する以外は出さないようになっていた。そこでおれとしては自信があると豪語しているお好み焼きを中心とした大阪鉄板焼きをメニューの中心にするよう強く勧めていたのだ。
 もっとも大阪人は誰に聞いても自分のお好み焼きが最高だと豪語するのが常みたいだから、お好み焼きなど別に好きでもなんでもなく味もわからないおれとしてはそんなことはどうだっていい。それよりも客自身がテーブルでヘラを使いながら作り食べる方式を提供すれば、ビエンチャンではそのような店はないだけに、日本人だけでなくラオス人や白人旅行者にも絶対に人気を呼ぶだろうと思ったのである。さすがフォーブスの表紙を目指しているおれ。だから雑誌Dancyuの鉄板焼き特集を貸したりして、ユウさんをしっかり応援していたのだ。
 いや正直に言おう。おれとしては自分の店が終わったあとにユウさんの店に具材を持ち込み、それを鉄板で焼きながら泥酔して騒ぎたいという姑息な考えがあっただけのことだ。自分の店でされるのは好まないが他人の店で泥酔して大騒ぎするのが楽しいというのは、カフェ・ビエンチャンを始めてわかったことの一つである。
「鉄板も専門店に負けない6ミリの厚板を使った本格台です」
「じゃあ、はやくそれ使って営業したら」
「それが無理ですねん」
「どうして」
「火が強すぎますねん」
「はあ?」
 聞けば鉄板の下に取り付けたガスバーナーの火力が強力すぎて、そばにいると熱くて具材を焼くどころではないのだという。
「ラオス人の業者に作らせたんですけど、二本でええ言うてんのに、そのオヤジ、こんな厚い鉄板を熱くするにはバーナーが四本はいる言うて、強引に付けてしもうたんですわ。鉄板の横から炎が噴出してくるわ、鉄板が熱くなりすぎて具材がすぐに黒焦げになるわで使い物にならへん」
「うそだろ」
 おれはさっそくユウさんの店に行って台を見せてもらった。
 それはまさに恐ろしいほどの火力を持つ超合金ターボ鉄板焼き器であった。
「火事になる前に客が焼け死にますわ」
「.........」
 溜め息をついた。鉄板焼きで大騒ぎの夢は潰えた。おれは席を立った。
「それからユウさん。その水槽の中身、さっさと変えたほうがいいと思うよ」
「そうですか?」
 ユウさんがヘラヘラと笑った。店に置いてある熱帯魚用水槽には、どこで手に入れたものなのか、色鮮やかな小ぶりのプラスチック製男根がいくつも底に沈められていた。その周りを小さな熱帯魚が気持ちよさそうに泳ぎまわっている。サルバドール・ダリでも思いつかないシュールな水槽。しかし客がお好み焼きを食いながら見るにふさわしいとは、どうしても思えない。
「きれいですやん」
 ユウさんの脳はラオス人化が過ぎて液化してしまったのであろうか。それとも単に大阪人だからなのか。
「クロダさん、ユウさんの店に行きましょう!」
 自分の店が終わったカメちゃんが誘いにきた。
「ようし! 行こう! もし店を閉めてたら、石を投げつけて叩き起こそう」
 最近ではあまりに頻繁に乱入し遅くまで騒ぐものだから、ユウさんの可愛いラオス人奥さんテンちゃんにすっかり嫌われてしまったおれとカメちゃん。それもあってかユウさんは、おれたちが来ると察すると店の鍵を閉めて寝たフリを決め込むようになってしまったのである。しかしかまうものか。無理やりにでも開けさせてやる。なぜならここはビエンチャンだ。おれたちは江戸人の遺伝子を受け継いだニッポン男子だ。楽しい時間をガマンするなんて無理ってもんだぜ! 夜は長い。脳内ヘラヘラ!

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