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第12回

 古川日出男さんの小説を読もうと決め、『ベルカ、吠えないのか?』と『LOVE』を読んだ。
 おお…こりゃすごい。恰好いい。ものすごく不穏で、流し読みする隙を与えてくれず、でも疾走感に溢れてて、すごくいい。お目にかかる前に読んでたらなあ…とお決まりの後悔を噛み締める私。犬のサーガと、猫のサーガであった。犬のサガと猫のサガももちろん入っている。

 『LOVE』を読んだら、猫を見に(そして、数えに)行きたくなった。
 私はチャリ(「愛機」)に跨って、以前住んでいた土地へ向かった。

 現在、私が住んでいる場所の周辺では、全くと言っていいほど猫を見ない。
 見るのは犬を連れた多くのマダム/オヤジ。多い。「白金」ってほどではないかもしれないが、うじゃうじゃいる。
 しかし、猫を見ない。私の日常生活圏内で観察できないだけで、一本裏通りに入るといるのかもしれないが、実際のところ見かけないのである。犬が多いところでは猫はいないという仮説を私は準備している。

 ところが、以前に住んでいたところでは猫が山ほどいた。
 そちらはダウンタウンなテイスト溢れる町で、駅前のパチンコ屋の裏の小さな駐車場に停めてある車の、陽当たりのいい日などはルーフの上、ボンネットの上、またはボディの下/アスファルトの上などにうじゃうじゃいた。
 現宅と以前の住処は、同じ沿線の駅三つしか離れていないところなのだが、かなりの程度ノリが異なる。現在の駅が完全高架式、以前の駅が完全地ベタで電車の窓から手を伸ばせば線路沿いの平屋の裏窓に届きそう、という程度の違いである。

 犬派猫派というが、分類するなら最近の私は猫派である。十代の頃、実家に犬がいたが、猫には縁が無かった。でも文章で読むには猫のほうが好きだ。猫についての文章が好きだ。
 出版界の常識としては、犬の本は売れるが猫の本はあまり売れないとされるようだ。たしかに犬はかわいい。まさに「ともだち」。近づいて、触れて、感じるものだと思う。
 しかし、猫は離れて見るものだと思う。

 で、チャリ(「愛機」)に跨って、「見に」行ったわけだ。
 三駅。約15分ほど。線路沿いの最短ルートではおもしろくないので(完全に個人的に、だ)やや遠回りしながらベストのルートを選択。漕ぐ。漕ぐ。漕ぐ。ゆっくり行きゃあいいのにせっせと漕ぐ。
 着く。しかし、季節はすでに秋→冬。気づけばもう暮れかけている。まだ16時台だというのに。しかも昼間晴れていたのにいまや曇り空だ。肌寒くなってきた。駅前パチンコ屋裏の駐車場…いない。猫はいない。ここは陽当たりに左右されるからやむを得ない。

 以前住んでいたときに印象に残っているシーンがあった。市営の体育館やプールがある一画、そこにある小さな公園で、雨上がりの時間、傘を畳んだとき。あ、猫がいる。え、こっちにも。二匹、三匹…。お、こっちの繁みからも。四匹、五匹…。計七匹ぐらいが一勢に姿を現したあの瞬間。今日も猫はいるだろうか?
 公園。いない。暮れかけた公園。いない。爆音と巨大な飛行機の影(空港がすぐそばなのだ)。JAL。いないのか…。
 諦めようかと思ったが、チャリ(「愛機」)を降りてしばらく佇んでいた。待ってみた。
 …一匹。隣接する体育館との間を区切る緑のフェンス、その隙間から悠然と現れた一匹。少し離れた地面に腰を落ち着ける。
 やっぱりいたか。邪魔にならないようにじっと見ている。するとまた一匹、フェンスの隙間から。また一匹、下を流れる川に掛かる橋の欄干から。また一匹、公園の入口の石畳を踏んで。
 やっぱり猫は現れて、それぞれの場所に腰を据える。私はどの猫とも一定の距離をおいて、ただ、見ている。
 三、四、五、今日は六匹。私は満足して、やや猫たちに近づいてみた。
 端の一匹が腰を上げ、公園の入口/出口から歩み去った。橋の欄干の隙間を抜けていった。それぞれ。最後に残った一匹も、悠然とした歩みでフェンス前の繁みに消えていった。
 結局、猫は一匹もいなくなった。現れて、消えた。私は再び満足して、チャリ(「愛機」)に跨り、ゆっくりと漕ぎ出した。空はすっかり暮れていた。

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