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第4回

 欧米における出版流通・販売は、雑誌はドラッグストアやスタンド売り、書籍は書店売り、と分かれているようだが、日本のそれは一体で、出版社―取次―書店というルートが過半を占めている。つまり雑誌と書籍の出所が同じということだ。『業務日誌余白』(松本昇平)等の出版流通関連書をかじると、どうも日本近代出版史は雑誌にリードされてきたようだ。まず明治大正期は雑誌の全盛期だった。書籍も徐々に力をつけて、昭和初期の円本ブームで一気に大衆化する。書店の仕入れ条件が「買い切り」から「返品自由」になったのも、つまりのちの再販制の種がまかれ始めた時期も、雑誌が明治後期、書籍が後を追って大正初期である、いずれもなし崩しになった、という感が強いが。

 全国9316軒(2000年現在、書籍組合加入店)の書店に、休日以外の毎日、本を積んだ取次発のトラックが来る。トーハン、日販は全国ネットなのである。荷物の中身をモデル化すれば、少年マガジン、JJ、文芸春秋、そしてコミック(この業界では雑誌の範疇)、の隙間に『広辞苑』(岩波書店)、や文庫が乗っている。決して逆ではない。日本の出版流通インフラは「雑誌」で整備されていった。

 雑誌の優位性は近年ますます盛んである。1978年は販売金額比(雑誌/書籍)が107%であったのが2000年で147%にまで上がっている。前回もふれたが、昨今の小規模書店は雑誌で食べている。平均的な小型書店(20坪前後)の雑誌売上比率は全体の50~70%を占める。雑誌は書籍に比べ(1)売行きの足が(つまり資金回収が)速い、(2)卸し値が低い(つまり利益率が高い)、(3)毎月ほぼコンスタントに売れる(つまり資金繰りの予測ができる)、(4)悲しいことにベストセラーなどの話題書の入手が困難(どの業界もそうだろうが書籍業界は弱肉強食である)等の理由で、今や街の書店にとって雑誌は最大の資金源である。小型書店の標準的なレイアウトは店外に週刊誌のラック、店内の真ん中に雑誌販売用両面書棚がどーんとおいてあり、壁棚にコミック、実用書、地図、そして文庫、文芸書、場所によっては学習参考書、ビデオなどが所狭しと並んでいる、という割付になろうか。特に大都市圏内はこうなりやすい。

 私の大人向け小説の初体験は『次郎物語』(下村湖人 新潮文庫)であった。確か小学5、6年の頃で(1960年代前半だ)、中央線四ツ谷駅前、20坪ほどの照明のくすんだ小さな書店であった。教科書の販売もしていた、当時の文化スポットだったのかもしれない。何百回も通ったと思うのだが、じーっと目をつぶって思い起こしても雑誌の売場スペースは入口付近にちょこちょこっとあった、という記憶しかない。雑誌の発行点数自体がまだ少なかった。雑誌を発行し続けるには資金力が要るので、出版全体に体力なかったのだろう。他の書棚は大人の本と、もう興味のなくなった絵本類、そしてドリルなどの参考書だ。それより鮮烈に覚えているのは、奥に座って少年少女達を射るように見張っていた店主の眼差しと(そうか当時の書店は奥にレジがあったのだ)、「立ち読みを叱られたらどうしよう」とびくびくしながら、本を読みふけっていた自分の姿である。今は「立ち読み、座り読み歓迎」を看板にしている大書店があるのだから、隔世の感がある。学習参考書は都電に乗って、神田三省堂まで買いに行った。

 もうひとつ思い起こす光景は、私の最初の書店勤務先キディランド八重洲店である。東京駅から丸善に向かう道沿いにあり、昼休みや夕方から夜にかけて込み合う30坪ほどのなかなか繁盛していた店であった。書店がこんなに待ち合わせの場所として使われるのか、と驚いた記憶がある。そこで雑誌の担当を1973年から76年まで勤めた。冬は寒かった、夏は暑かった、店の外に置いた週刊誌とコミック誌のラック2台の売上がバカにならなくて1日に何度も補充をしていたから。レジも入口の脇で寒暖をまともにうけた。

 雑誌什器を指で折って数えて坪数に直しても5坪もないと思う。売上は全体の20~30%だろうか。書籍レイアウトはあらゆるジャンルの縮小版で、ないのはビジネス書を除く専門書、学習参考書だった。

 あの頃のベストセラーは、『日本沈没』(小松左京 光文社)『恍惚の人』(有吉佐和子 新潮社)『かもめのジョナサン』(R・バック 新潮社)『翔ぶが如く』(司馬遼太郎 文藝春秋 *司馬遼太郎の本は爆発的に売れた、長く売れた、書店の神様だった)『限りなく透明に近いブルー』(村上龍 講談社)等、数え切れないほど沢山あるが、店長がシャカリキになって、出版社や取次に電話をして仕入れをしていた(この店長とはジュンク堂池袋店の中途採用面接でよもやの再会をする、私は顔が上げられなかった)。キディランドは小規模の書店チェーン(当時首都圏に4店)で、チェーンだからといって特に集中仕入れをしていたわけでもない(いやあの頃はそんな生き馬の目を抜くようなことはどこもやっていなかったと思う)、もちろん出版社から特に厚遇を受けていたなどということもない。そんな状況でもあの店は話題書を常備していたように思う、できた時代だったのだろう。

 雑誌の担当として特に記憶に残るのは、「田中角栄研究(立花隆)」が『文藝春秋』に掲載された時の売行きのすさまじさである、数百冊とはいわないが百に近い数が「あっ」というまに売り切れた。『プレイボーイ』の創刊もすごかった。

 75年にリブロが、78年に八重洲ブックセンターがオープンする頃までの元気な「街の本屋」の平均的姿であろう。元気だったのだ。強調したいのは、住宅街の駅前、ビジネス街と立地は違うが小型書店における雑誌と書籍の売場構成比に、60年代と70年代の間には大きな差はまだ生じていないことだ。 

 80年代以降、特に書店チェーンの出店ラッシュが始まった頃から、徐々に小型書店の店内風景が変わっていく、雑誌偏重になる。雑誌を創る側も広告収入という大きな資金源を得て、ピーク時(95年)の発行部数は78年比で138%(金額比243.3%)になる。創り手、売り手の利害が一致した。しかし同時期、小書店の命綱の雑誌は燎原の如く広がるコンビニに顧客を奪われていくのである。そしてもうひとつ、雑誌自体が徐々に売上を落し始めている(2000年/1998年の売上は93.1%)。雑誌が作った出版流通インフラは曲がり角を迎えるだろう。2000年の書店数も10年前に比べて77.5%になっている。

 *私の思い出の2書店はもうありません。皆さんには懐かしい小さな書店はありますか。その書店が今も活気があるなら、それはほどほどに立地がよいのか(あまり良すぎても近所に競合店ができます)、経営者の必死の努力の賜物です。大切にしてほしい。

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