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第12回 2002年6月○日

 とうとうW杯が始まってしまった。案の定というべきか、僕は毎日そわそわ、ワクワク、落ち着かない日々を送っている。はっきり言って、仕事が手につかない。ゲームの行われている時間帯は、どうしても居ても立ってもいられない状態が続く。ほとんど拷問である。店もとても暇だ。テレビ観戦に家路を急ぐ人達が多いせいか、書店にとってかき入れ時の夜の時間帯がさっぱりなのだ。お客さんの応対で忙しければ、せめてその時だけでもW杯のことを忘れさせてくれると思ったが、こんな状態では、そんなことは望むべくもない。なおさら時間が、たまらなく長く感じられる。辛いのう。

 閉店と同時に、脱兎のごとく家へ一直線。帰って早速録画しておいたビデオを巻き戻す。僕にとってのW杯は、この時からやっと始まるのである。仕事中や帰宅途中、僕はゲームの途中経過等の情報から逃れる涙ぐましい努力をしている。結果がわかっているゲームをビデオで観るのは味気ない。あくまで、生放送のノリでテレビの前で興奮したいのだ。ただし、埼玉スタジアムでのゲームは鬼門だ。何故なら、僕は埼玉高速鉄道東川口駅を利用して通勤している。東川口はスタジアムのある浦和美園の次で、JRへの乗換駅にもなっているので、サポーター達が大挙して降りてくるのだ。

 日本vsベルギー戦の夜も、予期していた通り、不幸にも東川口駅で、僕は帰りのサポーター達と鉢合せてしまった。それからはもう大変、彼らと目を合わさぬよう、耳をふさぎ、人波をかいくぐり、駅前に借りている駐車場までダッシュ、車に乗り込むや疾風のごとく走り去る。あのサポーターの中で、ゲームの結果を知ることもなく、よくぞ家まで辿り着けたものだと思う。まさに、奇跡としかいいようがない。そして、遂に、ビール片手に真夜中のW杯大劇場のはじまりはじまりーい。疑似生放送とはいえ、やはり興奮する。気がつくと、大声をはりあげ、拳を突き上げている。ご近所の皆様、夜中なのにごめんなさい、6月いっぱいはこの状態が続きます。お許し下さい。

 サポーターのジャパンブルーのユニフォームに囲まれてふと感じたんだけど、W杯は“色の祭典”でもあるんだなあ、と思った。色とりどりのユニフォームやフラッグを目にすると、自然と気持や身体が高揚してくる。色が持っているパワーは凄い。チームの素晴らしいプレーや、サポーターの熱狂的な応援風景も、このユニフォームの色と共に鮮烈に人々の記憶に刻み込まれてゆくのだろう。そして同時に、その時湧きあがる様々な強烈な喜怒哀楽の感情も、その色と共に身体に染み込んでゆくのだ。

 色と共に心の内に深く刻まれた出来事や感情は、時を経ても決して色褪せない。実際僕も各W杯毎に印象的な色の記憶がある。それは、トータルフットボール、クライフ、オランダのオレンジ色だったり、黄金のカルテット、ジーコ、ブラジルのカナリア色だったり、神の子、マラドーナ、アルゼンチンの水色だったり……。今でも目を閉じれば、まぶたの裏に夢のような鮮やかな色彩が拡がってゆく。一体、今回のW杯は僕の目の奥に、どんな色の記憶を焼きつけてくれるのだろうか。

 色の記憶といえば、先日『色彩記憶』末永蒼生、江崎恭子共著(PHP研究所)という本が出版された。色をめぐる心の旅、と題されたこの本は、色の記憶によって人生を振り返り、本当の自分を発見した人達のカラーヒストリーが語られている。とても興味深く、感動した。さしずめ、僕のカラーヒストリーはW杯と色をめぐる心の旅、ということになってゆくのかもしれない。末永蒼生さんとは、以前A書店に勤めている時初めてお会いする機会をもった。もう10年程前のことである。今回の『色彩記憶』も出版される前に送ってきていただき、職場も変わってしまった自分をまだ憶えてくれていたなんて、ありがたくて涙が出そうになった。’90W杯イタリア大会、優勝はドイツだったけど、この大会、僕はイタリアチームのユニフォームの色、地中海ブルーに魅せられていた。開催国だったこともあり、頻繁にTV画面で映し出されたせいもあるだろう。でも、実際イタリアチームにはそれ程の感銘は受けていなかったし、この大会は、今思えばつまらない大会だった。確か、勝点が現在とは違っていて、引き分け狙い、守備重視が全面に出てしまった大会だった。でも何故かこのブルーに惹かれた。そんな当時、末永さんの『青の時代へ』(ブロンズ新社)という本が出版された。おやっ、と思って手にとり、興味津々で、またたくまに読んでしまった。青という色が妙に気になっていたこともあり、偶然とは思えず不思議な気持になったことを憶えている。そんな不思議さも手伝って、僕はさっそく“青い本のフェア”を企画した。内容などおかまいなし、装幀が青いきれいな本を、ただただ集める。青い色が気になっていたこともあるが、当時意外と青い装幀の本が多く出版され始めた印象を僕は持っていた。バブル崩壊後の失われた10年の始まりともいえるこの時期、時代の心のありようが、もしかしたら本の装幀にも反映されていたのかもしれない。このブックフェアに末永さんが興味を持っていただき、初めてお会いする機会を得たのだった。

 今思えば“青い本のフェア”、全く子供でも出来そうな単純なものだったけど、妙に心に残っている。10年以上も書店員をしてると、数多くブックフェアも企画するが、強烈に憶えているものとなるといくつもない。“青い本のフェア”はその内の数少ない思い出深い大切なフェアの一つである。

 僕の勤める東京ランダムウォークのある六本木はW杯開幕と共に異様な盛り上がりを見せている。各国のサポーター達が、代表チームのユニフォームを身にまとい、連日連夜、道を行き交い、パブではビールを手に一喜一憂している。色とりどりのユニフォームの色を目にすると、何故か心がウキウキして元気になる。末永さんの著書に『色彩楽』(日本ヴォーグ社)というのがあるけど、まさに、色は理屈抜きで本当に楽しい。『色彩記憶』の本の帯に書かれた“忘れられない色、ありますか?”僕にとって、90年代前半、忘れられない色は確かに青だった。そして、2002年、僕の目に深い感動とともに焼きつく記憶の色がジャパンブルーの青であることを、切に願わずにはいられない。

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