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第6回 「いろんな書店があっていい」

 私は書店で働いている。従って、週に5日も書店に行くことになる。事情をあまり知らない人は「いっぱい本が読めていいね」なんて言うけれど、仕事中に本を読んでいる余裕はほとんどない。それでも毎日入荷する新刊を実際に目で見て、欲しい本があればすぐに買えるという程度の「得」はある。店頭には並べない本を自分のために取り寄せることも簡単にできる。だから、本を買うということについては、確かに不自由がない。しかし私は、休みの日にもまた書店へ足を運ぶ。別に偵察や研究のためではない。いや、実際には勉強になる書店も多いので、そういう付随的な収穫もなくはないが、第一義的には、休暇の自由な行動として、好きで書店に行く。よっぽど書店が好きなのね、と自分でも思う。

 とりあえず新刊台やエンド(本棚の右端や左端にある平台)を見て、そのときのその店の「主張」をチェックする。そしてそれを踏まえた上で、棚を見ていく。そうすると、新刊台にはなかったけれど個人的には非常に気になる新刊などが、棚の前に平積みになっていたり、あるいは棚に1冊差してあったりする。これは店と私の「見解の相違」ということになるが、それはそれでいい。いろんな店があっていい。例えばあっちの店では店頭でワゴン積みになっていた本が、こっちの店では棚の前にひっそりと5冊ばかり積んであるだけだったりすると、その扱いの違いに思わずニヤリとなる。そう、いろんな店があっていいのだ。

 と言いつつも、やはり好きになるのは自分と「主張」の近い店だ。いま現在最もよく行く書店は新宿ルミネ2の青山ブックセンター。コミック売場を移動・拡張してから売場全体がなんとなく弛緩した感じもあるが、この店の編集力にはいつも頭が下がる。棚の自由度の高さと平積みの自己主張の強さ。それが決して独善的に見えないのは、的確に現在を映そうとするスタッフの姿勢の表れなのだろうと思う。視野の狭い人には作れない売場だ。あたりまえのことなのだが改めてプロの仕事だなあと感心してしまう。

 過去に遡ると、最初に「行きつけ」の店になったのは新宿の紀伊國屋本店だ。高校が新宿にあったので、その頃、帰りがけによく立ち寄った。島田雅彦の小説を最初に買ったのも、ここだった。紀伊國屋は言うまでもなく書店業界のキングだが、何より専門書の分類の的確さについては「さすが」と言うほかない。学問体系が可視化された棚は、それ自体が入門書の役割を果たしている。

 その頃、紀伊國屋とは全く違った「へんな本屋」として面白かったのが、いまは無きリブロ渋谷店。LOFTの中にあった、セレクト・ショップ型の店だ。この頃はCDショップのWAVEもLOFTの1F(いまはコムサになっている所)にあって、よく行った。リブロもWAVEも間接照明でちょっと暗めの雰囲気だったが、なんとなくそれが「大人の世界」に見えた気がしていたのは、私が子どもだった証拠だろうか。

 大学に入ると、いちばん近い芳林堂池袋本店に通った。社会科学系の本が実によく揃っていて(新左翼団体の機関誌まで揃っていた)、法学部生だった私にとってはとても役に立つ書店だった。学生需要も当然意識していたのだろうけど、文学の売場が新しい作家に熱心だったのは、私の好みにも合致していた。もちろんリブロ池袋店にも行ったが、本当に必要なものは芳林堂で買って、その後、暇つぶしの散歩感覚で行く店だった。「遊び場」という位置付け。これは入社試験の社長面接でもはっきり言ったことを覚えている。当時の社長は、いまの千本木社長の前の前の代になるが、面接で「リブロのどんなところがよくて、どんなところがよくないか」と聞いてきたので、私は、「法律書の品揃えがよくないので、法学部生としては実用的でなく、そういうものは芳林堂で買っているが、芸術や現代思想のコーナーには面白そうなものがいっぱい並んでいて、必需品以外の“遊び”の欲求に応えてくれるところがいい」と答えた。それが「採用」という結果にどう影響したかは知らないが、私の生意気な発言を切って捨てなかったリブロの判断には感謝したい。

 実は大学の後期~就職後、回数にして最も多く通い、そしておそらく金額的にも最も多く買物をしたのは、パルコブックセンター渋谷店である。現在も青山ブックセンターの次によく行く店だが、ここについては改めて書きたい。
 以上書いてきたことは全て私の個人的な見解であることは言うまでもなく、人の好みはそれぞれなので、異論反論もあるだろうが、書店の良し悪しに客観的な物差しは当てにくい。誰しも数多ある書店の中から、自分の好みに合うものを見つけ、そこに通い、一方、気に入らない書店には2度と足を運ばない。それでいい、というか、それがいいのだと思う。豊富な選択肢の中から自分の好きなものを選ぶ自由こそ、文化的な豊かさである。

 そのこととの関連でひとつ言い加えると、現在検討されている「青少年有害社会環境対策基本法案」が想定する「国家総動員」的な社会の無害化運動は、書店のレイアウトにまで口を出しながら、その豊富な選択肢を狭めていく可能性があり、十分に注意しなければならない。何が「有害」かという問題もさることながら、仮に「有害」な書籍を堂々と置いている書店があって、それを「青少年」に見せたくなければ、親が「あの本屋さんはダメ」と言って子どもを行かせなければいい(まさか親子の間で共有できないような価値観を国全体で共有しようなんて話が通るわけないし)。ある人にとっては「有害」なものが他のある人にとっては「有益」かもしれないところに本の面白さがあるわけで、他の誰かがそれを選択する自由まで一斉に奪うというのは、ちょっと野蛮ではないか。精緻な議論でないことは承知の上で、とりあえずそんなふうに感じているのだが、いかがだろうか。

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